今も昔も変わりなく、どんな世界でもたいていはそこに即したやり方があり、自然と積み重ねられた不文律があるもの。
しかし、時にはあえてそのルールを破ってこそ、活路を見出せることもある――若き日の「奥州の独眼龍」伊達政宗が仕掛けた「小手森城の撫で切り」は、まさにそのような挑戦であった。
政宗が父・輝宗から伊達氏の家督を継承したのは1584年(天正12年)、わずか18歳のときのこと。
それから間もなく、小浜塩松城主・大内定綱が政宗への臣従を申し出たが、時をおかず伊達氏のライバルである蘆名氏方へ「転向」するという事件が起きた。
基本的に戦国大名は絶対君主ではなく、半ば独立勢力である中小国人たちをいかに自分の支配下に留めて置くかということに腐心しなければならない。
定綱の短期間での裏切りは、他の国人たちに伊達氏を軽視させる原因になりうるものであり、無視できない問題であった。
かくして翌1585年(天正13年)、政宗は大内氏を攻めた。
その過程で小浜塩松城の支城である小手森城を攻撃することになったのだが、なんと政宗はこの城を「撫で切り」にした。
皆殺しである。手向かう兵士どころか女・子ども含めた八百人余りに家畜まで加えて徹底的に生き物を殺しつくした、というから尋常ではない。
結果、定綱は戦わずして蘆名氏のもとへ逃げ去ることになった。
撫で切り戦術自体は、戦国時代を通して皆無というわけではなかった。
織田信長の比叡山焼き討ちや、一向一揆との戦いなどでは同種のやり方が見られたとされる。
しかし、東北地方には鎌倉時代以来の名門が多く、先祖代々それぞれの家が深い婚姻関係を結んできた。
いわば、地域全体で親戚同士のようなものだったのだ。
自然、戦いはある程度の趨勢が見えたところで決着となり、どちらかがどちらかを攻め滅ぼすまで追い詰めるようなことは少ない。
にもかかわらず、政宗はそれをやった。
結果、「若き伊達氏当主恐るべし」という評判が周辺を駆け巡り、国人たちは「自分たちも同じ目にあわされるのではないか」と恐れた。
政宗の「ルール破り」は絶大な効果を現した、というわけだ。