伊達政宗はその生涯で何度も危機に遭遇し、そのたびに命からがら切り抜けている。
その中でもドラマチックな一幕に、1585年(天正13年)の人取橋の戦いがある。
戦いのきっかけは、政宗の父である輝宗の死であった。
この時期、政宗は二本松城の畠山義継に対して厳しい圧迫を加えていたが、輝宗の介入によって穏便に傘下へ加えることになった。
ところが、その義継が輝宗を人質にして逃走し、あわてて政宗が救出の兵を送ったものの輝宗を死なせてしまう、という事件が起きた。
激怒した政宗は二本松城を包囲して激しい攻撃を加えたが、守りが堅くてなかなか攻め落とせない。
そうこうしているうちに、北関東の有力者である佐竹氏や、伊達氏にとって南奥州をめぐるライバルである蘆名氏らをはじめとする周辺諸勢力による総勢3万の連合軍が結成され、二本松城救援にやってきた。
対する伊達軍はせいぜい7000から8000あまりで、圧倒的不利な状況であったが、とにかく戦わないわけにはいかない。
要所である観音堂山に本陣を移し、連合軍を迎え撃った。
この戦いの激戦地となったのが山のふもとの人取橋だったので、「人取橋の闘い」と呼ばれるようになったのである。
このとき、窮地に陥った政宗を救ったのは家臣団の献身だった。
政宗の幼いころからの教育係であり、また生涯の腹心にもなった片倉景綱(小十郎)は、政宗が敵兵に囲まれて窮地に陥るや、「政宗はここだ!」と自分が主君に成りすますことによって注目を集め、その命を救ったという。
また、老将・鬼庭良直(左月)は鎧も身につけない姿ながら人取橋で命がけの奮戦を繰り広げ、命と引き換えに政宗が撤退するだけの時間を稼いだ。
おかげで伊達軍は1日目を乗り切ったのだが、翌日以降も戦況は厳しいと思われた――ところが、連合軍側は翌日には撤退し、戦いは終わってしまったのだ。
理由は諸説あるが、佐竹氏の重鎮が急死したこと、彼らの本国の情勢が変化したことが原因であったらしい。
この戦いでは、無理に二本松城を攻めた政宗の若さが目立ち、優れた将という印象は薄い。
だが、部下の献身や敵の事情といった自分以外の要素で命を拾い、以後は奥州制覇に向けてまい進していくことになる。
窮地に陥っても偶然を味方にし、そこから挽回できる人間こそが出世していくのは、現代も戦国も変わらない。