多くの戦国大名は絶対君主ではなく、無数の中小勢力の上に立つ不安定な立場のリーダーに過ぎなかった。
そのため、部下から「こいつには将来性がない」と思われればあっさり裏切られることも珍しくない――それが同盟相手であれば尚更である。
もし、あなたがリーダーとして集団を率いたり、あるいは組織のトップとして他の組織との連携・折衝をしなければならない立場なら、これから紹介する織田信長の教訓を忘れないでほしい。
1570年(元亀元年)、信長は越前の名門・朝倉義景を攻めるべく、兵を率いて京を発った。
この2年前、信長は足利義昭を奉じて上洛し、彼を将軍の座につけることによって大きな勢力を獲得していたが、一方でその御輿である義昭との間には微妙な対立関係が生じてもいた。
そんな信長が発した「上洛せよ」という命令を無視し、敵対的姿勢を隠さなかったのが、かつて義昭を保護していたことのある朝倉氏だったのである。
信長は3万の軍勢を率いて越前に入ると、まず敦賀郡の攻略にかかった。
この地域の主城は金ヶ崎城であったが、信長はあえてまずその支城である手筒山城から攻め落とし、自らの力を誇示することによって金ヶ崎城をあっさり陥落させることに成功した。
あとは義景の本拠地を目指して進むのみ――なのだが、ここで異変が起きた。
信長にとって妹婿であり、信頼していた同盟者である近江の浅井長政が反旗を翻し、信長の背後を襲う動きを見せたのである。
実は、浅井氏は朝倉氏と古くから縁があり、信長との同盟にあたっても「勝手に朝倉と敵対しない」という約束を取り付けていたのだが、信長がそれを無視したので朝倉側についたのである。
長政としては、このように同盟相手を無視する行動に出るようでは、今後いつ自分が討たれるかわからない、と考えたのだろう。
信長としては「長政が利を優先して朝倉攻めを黙認する」と見て、あえて強行したのだろう。
結局のところ、これは信長の配慮不足が招いた失敗、といわざるを得ない。
結果、信長は「金ヶ崎の退き口」と後世に伝わる必死の撤退戦を展開してどうにか引き上げた。
以後、信長と浅井・朝倉氏の戦いは長く続くことになるのである。