1590年(天正15年)ごろには、豊臣秀吉による天下統一は最終段階にいたっていた。
旧織田政権の諸将は完全に彼の傘下に入り、北陸・中国・四国・九州の諸大名もあるいは降伏し、あるいは攻め滅ぼされていた。
そんな秀吉に対して明確な対立姿勢をとっていたのが、関東の覇者である北条氏(小田原北条氏)であった。
秀吉は傘下の大名である真田昌幸と北条氏が領土争いを起こしたことをきっかけに、一気に殲滅することを決める。
「小田原攻め」などと呼ばれることの戦いこそは、秀吉が築き上げた圧倒的な戦力・経済力の力を誇示するものに他ならなかった。
小田原攻めに際して秀吉がかき集めた諸大名の軍勢は、総計で20万とも21万ともいう未曾有の大軍で、大きく分けて三方向から関東に迫る。
圧倒的な兵力の前に、関東各地の北条方拠点は次々と陥落していく。
一方、北条氏は小田原城に戦力を集め、篭城戦の構えを取った。
この城にはかつて武田信玄や上杉謙信らの攻撃をも跳ね返した実績があり、それに頼ってのものであろう。
だが、当時とは事情がまったく違った。
豊臣軍の兵士たちは兵農分離が進んだ専業兵士であったため、農業スケジュールに行動を束縛されることはなかった。
大軍が遠くまで遠征して長く戦うとなれば兵站・補給の問題が生じるが、これについても十分な備えがあった。
それどころか、小田原城のすぐ近くにかなり本格的な攻城拠点である石垣山城を築き、側室まで呼び寄せてゆっくりと北条方が音を上げるのを待つ始末だった。
篭城戦というのは「援軍の到着を待って決戦を挑む」か「相手が補給や士気の問題でそれ以上戦えなくなる」のどちらかでなければまず決着しない。
このときの北条氏にはどちらも期待できなかった――かくして北条氏は3カ月ほどで降伏へ追い込まれた。
この戦いはふたつの教訓を教えてくれる。
ひとつは「圧倒的な力があれば正面から叩き潰すことができる」ということであり、もうひとつは「昔の成功を頼りにしすぎず、以前とは状況が変わってしまっている可能性も考慮に入れること」ということだ。