小田原征伐は1590年(天正18年)に豊臣秀吉が小田原城に籠城する北条氏を降伏させ天下を統一した、一連の合戦のことです。
「小田原攻め」や「小田原の役」とも呼ばれます。
なお、小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた関東一円にわたって点在する北条氏が支配する各支城の攻略戦も含まれます。
合戦の経緯
いわゆる小田原攻めは1589年(天正17年)10月23日の名胡桃城事件を受けて、11月24日に秀吉が北条氏に宣戦布告をおこなってから、翌年7月5日に北条家当主である北条氏直が降伏するまで半年以上にわたっておこなわれました。
おおまかな合戦の経緯を時系列で並べます。
北条氏側も秀吉の侵攻にそなえてなにもしなかったわけではなく、小田原城の惣構(そうがまえ)を完成させ、さらに八王子城を築城し、山中城や韮山城などの支城を改修しました。
日付 | 出来事 |
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天正17年10月23日 | 名胡桃城事件(猪俣邦憲が名胡桃城を攻め取る) |
11月24日 | 北条氏に宣戦布告 |
12月13日 | 秀吉の陣触れ |
天正18年2月 | 家康が駿河から出陣(2万) |
3月1日 | 秀吉が聚楽第から出陣(3万2千) |
3月27日 | 秀吉、沼津に入城 |
3月28日 | 北方隊が松井田城攻略開始 |
3月29日 | 山内一豊、堀尾吉晴らが山中城を数時間で攻め落とす |
3月29日 | 韮山城攻略開始 |
4月1日 | 井伊直政隊が足柄城を落とす |
4月3日 | 先鋒部隊が小田原に到着 |
4月19日 | 厩橋城を攻略 |
4月20日 | 松井田城落城 |
4月21日 | 家康の説得により玉縄城開城 |
4月22日 | 家康の説得により江戸城開城 |
4月23日 | 九鬼嘉隆、脇坂安治らが下田城を攻略 |
4月24日 | 箕輪城を攻略 |
5月3日 | 前田利家軍が河越城を攻略 |
5月5日 | 小金城を攻略 |
5月9日 | 伊達政宗、会津を出立 |
5月10日 | 臼井城を攻略 |
5月14日 | 北方隊が鉢形城攻略開始 |
5月18日 | 本佐倉城を攻略 |
5月19日 | 北方隊が岩槻城攻略開始 |
5月20日 | 武蔵松山城を石田三成、真田昌幸軍が攻略 |
5月22日 | 岩槻城を攻略 |
5月22日 | 石田三成軍が館林城を攻略 |
6月5日 | 忍城攻略開始 |
6月9日 | 政宗が白装束で出仕 |
6月14日 | 鉢形城落城 |
6月23日 | 八王子城を攻略 |
6月24日 | 韮山城開城 |
6月26日 | 石垣山城が完成 |
6月28日 | 石垣山城に秀吉入城 |
7月5日 | 氏直が降伏 |
7月11日 | 氏政・氏照が切腹 |
7月16日 | 忍城開城 |
小田原城攻囲戦
1590年(天正18年)4月3日には先鋒部隊が小田原に到着し、そこから約4カ月にわたって小田原城を包囲しました。
包囲する豊臣軍は総勢約21万、籠城する北条軍は約5万6千でした。
かつては上杉謙信や武田信玄を撃退した小田原城でしたが、それは謙信や信玄の軍勢が基本的に半農半兵だったため、米の収穫期(農繁期)には帰国しなければならなかったからです。
いっぽう、秀吉の軍勢は兵農分離が進み専業武士中心であったため、年単位の在陣さえ可能でした。また長期戦を支えるだけの財力もありました。
秀吉は陣城(対の城)として笠懸山に城を築かせ、ここを本陣に包囲戦をおこないましたが、城ができてから数日後の7月5日、氏直は開城して降伏しました。
ちなみにこの城が「石垣山城」と呼ばれるのは後年になってからの話です。
「笠懸山」と呼ばれていた山に、秀吉が石垣造りの城を築き、それがすぐに廃城となり石垣だけが残ったため、江戸時代になって「石垣山」と呼ばれるようになったそうです。
小田原評定
本来の意味は、北条氏が月2回おこなっていた重臣会議のことです。
五代100年にわたり、家臣・国人の裏切りが皆無に近い北条氏のすぐれた統治システムとして評価されていますが、現在は「だらだらと一向に結論が出ない会議」という意味で使われることが多いです。
これは小田原合戦において、重臣同士の意見がわかれ、結論が出ることなく滅亡にいたったことによります。