北条氏時代の天守は独立式望楼型で、第5代当主である北条氏直によって1580年(天正8年)に築かれました。
この天守は北条氏滅亡後も徳川氏に利用されていましたが(大久保忠世・忠隣父子や阿部正次、稲葉正勝が城主を務めました)、1633年(寛永10年)1月に発生した駿豆相大地震により倒壊しています。
同年に幕府の直営により天守が再建され、1634(寛永11年)に3代将軍・徳川家光が小田原城の天守にのぼったという記録が残っています。
しかしこの天守も1703年(元禄16年)の南関東駿豆地震に伴う火災で焼失しました。この大地震では小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまったそうです。
当時の城主、大久保忠増によって天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この複合式層塔型3重4階の天守が現在の復興天守のモデルとなっています。
この3代目の天守は明治に解体されるまで存続しましたが、1782年(天明2年)の武相大地震と1853年(嘉永6年)の嘉永大地震という二度の地震のたびに被害を受け、改築されています。
その後、1870年(明治3年)に小田原城が廃城となり、天守は払い下げられ解体されました。
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけて、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。
また、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により崩壊した天守台は、1950年(昭和25年)から小田原城址公園として整備が開始されます。
現在の天守は1960年(昭和35年)5月に市制20周年記念事業として、総工費8000万円をかけて復興されました。
江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を参考に外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興にあたって、多くの市民から寄付が寄せられたそうです。
3重4階の天守櫓に付櫓と渡櫓を付した、鉄筋コンクリート造の複合式天守です。
なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたもので、当時はありませんでした。
館内は残念ながら撮影禁止ですが、甲冑や武具のほか、北条五代の肖像画などが展示されています。
最上階は展望フロアになっていて、廻縁からは相模湾が一望でき、晴れた日には房総半島まで見ることができます。
小田原市では歴史景観を守るため、2006年(平成18年)にこの天守の高さを基準とした高度規制を行い、天守の高さを超える建物の建築を制限しているそうです。