小田原城
小田原城

[神奈川県][相模] 神奈川県小田原市城内6-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.85(21位)
  • 見学時間:1時間36分(13位)
  • 攻城人数:5032(8位)

小田原城の天守(小田原城天守閣)

北条氏時代の天守は独立式望楼型で、第5代当主である北条氏直によって1580年(天正8年)に築かれました。
この天守は北条氏滅亡後も徳川氏に利用されていましたが(大久保忠世忠隣父子や阿部正次稲葉正勝が城主を務めました)、1633年(寛永10年)1月に発生した駿豆相大地震により倒壊しています。

同年に幕府の直営により天守が再建され、1634(寛永11年)に3代将軍・徳川家光が小田原城の天守にのぼったという記録が残っています。
しかしこの天守も1703年(元禄16年)の南関東駿豆地震に伴う火災で焼失しました。この大地震では小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまったそうです。

当時の城主、大久保忠増によって天守が再建されたのは1706年(宝永3年)で、この複合式層塔型3重4階の天守が現在の復興天守のモデルとなっています。
この3代目の天守は明治に解体されるまで存続しましたが、1782年(天明2年)の武相大地震と1853年(嘉永6年)の嘉永大地震という二度の地震のたびに被害を受け、改築されています。

その後、1870年(明治3年)に小田原城が廃城となり、天守は払い下げられ解体されました。
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)にかけて、城内の建造物はほとんど取り壊され、天守台には大久保神社が建てられました。
また、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により崩壊した天守台は、1950年(昭和25年)から小田原城址公園として整備が開始されます。

現在の天守は1960年(昭和35年)5月に市制20周年記念事業として、総工費8000万円をかけて復興されました。
江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を参考に外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興にあたって、多くの市民から寄付が寄せられたそうです。

3重4階の天守櫓に付櫓と渡櫓を付した、鉄筋コンクリート造の複合式天守です。
なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたもので、当時はありませんでした。

館内は残念ながら撮影禁止ですが、甲冑や武具のほか、北条五代の肖像画などが展示されています。

最上階は展望フロアになっていて、廻縁からは相模湾が一望でき、晴れた日には房総半島まで見ることができます。
小田原市では歴史景観を守るため、2006年(平成18年)にこの天守の高さを基準とした高度規制を行い、天守の高さを超える建物の建築を制限しているそうです。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

小田原城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

夕雲の城

織田信長による美濃攻めの過程で発生した堂洞合戦を守勢側である斉藤氏家中の目線で描いた漫画です。
登場する城は加治田城と堂洞城。
巻末には関連資料や解説ページもあり、攻城前の予習に使う資料としておすすめです!

茶々さん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る