関ヶ原の戦いの回で、合戦はしばしば始まった瞬間に終わっている、と紹介した。
だが、時には戦場での戦術的判断や武勇がそれらの事前準備をひっくり返しかけることもある。
徳川家康は石田三成を倒して江戸幕府を創設し、天下人となった。
その幕府にとって目の上のたんこぶであり続けたのが、豊臣秀吉の遺児・秀頼を擁する豊臣家であった。
結果、1614年から翌15年(慶長19年~20年)にかけて二度の戦いが勃発する。
これを総称して「大坂の陣」とし、一度目を「大坂冬の陣」、二度目を「大坂夏の陣」と呼ぶ。
「大坂夏の陣図屏風・右隻」(大阪城天守閣所蔵)
家康は今回も、入念な準備をもってこの戦いに挑んだ。
関ヶ原の戦いから15年弱の歳月のなかで幕府による諸大名の支配は進行しており、彼らは誰ひとりとして豊臣家に味方しようとしなかった。
それでも堅固な大坂城と、戦慣れした浪人衆を擁する豊臣方が強いと見るや、家康は新たな工作に取り掛かった。
和睦交渉を利用して城を取り囲む堀を埋め立て、防御設備を多く破壊してしまったのである。
これが冬の陣の顛末である。
まもなく始まった大坂夏の陣において、豊臣方は城に立てこもって戦うわけにはいかなかった。
追い詰められた彼らは、最後の突撃によって家康の首を取り、戦況を逆転する道を選ぶ。
実際、ここで家康が死んでいれば、天下の情勢は再び混迷の一途をたどる可能性があった。
幕府の実権の多くを掌握していた家康が死ねば、全国の諸大名がどう動くか、誰にも予測は立てられなかったろう。
どれだけ優勢に見えても、弱点というのはあるもの。
これは現代の私たちを取り巻く事情でも同じで、大きな組織にいる者は自らの弱点を把握しておくべきだし、小さな組織にいる者は相手の弱点はどこか、と観察する努力を怠らないでいたいものだ。
残念ながら、大坂方の執念は実らなかった。
豊臣方の毛利勝永隊による奮戦が幕府軍の先鋒を打ち崩し、そこに真田幸村(信繁)が3度の突撃を仕掛け、1度は家康自身に死を覚悟させるほどのプレッシャーを与えたものの、そこまでだった。
圧倒的な戦力差を前に幸村は討ち死にし、大坂城も炎に包まれた。
こうして豊臣家は滅亡した。