豊臣秀吉の死後、豊臣政権内ではさまざまな問題が顕在化し、不協和音が加速していく。その中のひとつが、加藤清正・福島正則らを筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。
そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。
これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説における「七将襲撃」の事件である。
ところで、近年ではこれらの一連の出来事について疑いをもつ意見が出てきているのをご存知であろうか。すなわち「七将による襲撃は根拠史料のない創作の出来事である」というのだ。では、実際には何があったのだろうか。
そもそもこの出来事、主役の一方である七将のメンバーが史料によって異なるのだが、有力な説では細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、加藤清正、浅野幸長、黒田長政であるとされる。
彼らは三成を武力によって襲撃はしなかったが、その代わりに訴訟を起こした。
内容については「朝鮮出兵時、三成の讒言によって黒田・蜂須賀・加藤・藤堂らが秀吉によって強く叱責を受けた」というものである(これに関係のない細川・福島らは別の件で訴訟を起こしたともいう)。
この時、三成が自分の屋敷に立てこもって睨み合うなどの出来事はあったようだが、少なくとも後世言われるような武力襲撃はなかった。襲撃されていないのだから、当然三成が家康の屋敷に逃げ込むこともない。
しかしその代わりに、家康が訴訟の仲裁に入った。朝鮮出兵時の讒言によって損なわれていた武将たちの名誉回復が行われるとともに、三成は謹慎・隠退処分を受けて豊臣政権から排除されてしまう。
以上を見ていただければ分かる通り、通説で起きたことと、近年実際に起きたであろうと考えられていることの間に大きな違いはない。
全体の流れとしては、朝鮮出兵の時の遺恨から、武断派諸将が三成を攻撃し、家康の仲介によって三成が政権から排除されて決着する、というものだからだ。武断派諸将は最終的には三成を切腹に追い込もうと考えていただろうから、命を狙っていた点でも同じだ。
ただ、訴訟という政治的な攻撃であったのが、後世の脚色によって襲撃ということになり、またそこに三成が起死回生の一手としてあえて敵の家康を頼った……というドラマチックなエピソードが差し込まれたものと思われる。