2023-01-01から1年間の記事一覧
城もなか研究の第一人者である城葱さんの情熱は留まるところを知らないようで、今度は最近全国で増えつつある城もなかのアレンジ商品「進化系城もなか」をリサーチされました。城もなか同様、一覧表とマップを作っていただいたのでぜひご覧ください!
戸切地陣屋はどのくらい原典であるサヴァール教本の内容を反映しているのか。時田さんの調査によれば城が築かれた「野崎の丘」の自然地形もうまく活用し、かなり忠実かつ正確に再現していると言えるそうです。
家康にかぎらずこの時代の名君と呼ばれるような人は、有能なスタッフを集めて強いチームを形成してましたよね。 ゲームだと武力の能力値に目が行きがちですが、じっさいには統治や内政を支えたブレーンたちが為政者には不可欠でした。
日本のお城の魅力はいわばひとつとして同じお城がないという個性にあるわけですが、西洋では体系だった理論や学問として築城術が発展しました。その結果としての稜堡式城郭であり、戸切地陣屋は日本ではじめてその理論を輸入したお城ということです。
今回は島田市博物館の岩﨑学芸員に今年で築城450年を迎える諏訪原城について教わります。武田勝頼と徳川家康によって争奪された歴史を知ると、現地を訪問したくなりますね。
そもそも稜堡式築城術とはどういうものなのか? 西洋といってもどこの国で生まれたのか、いつ誰が考えたのか、またその専門的な学問がどのように日本に持ち込まれたのか、考えてみると謎だらけですよね。ヴォーバンとかサヴァールとかお城の話にフランス人の…
レゴジャパンから8月1日に発売された大人向けレゴ®セット〈レゴ®アーキテクチャー 姫路城〉をご提供いただいたので作ってみたのですが、かなりの再現度なので本物の姫路城の写真と比較してみました。
ついに戸切地陣屋が完成します。ぼくは稜堡がひとつしかない点を見て松前藩は予算不足だったのかなと思っていたのですが、じつはひとつあれば十分防衛できる最高の立地に築いているそうです。今回は図解も多く、稜堡式城郭がどうやって守備をするのかがよく…
ルイス・フロイスが書いた『日本史』に家康が信長の「義弟」という記述があるそうです。 三国志の劉備たちが義兄弟を名乗ってるように、姉妹との結婚がなくても義弟と呼ぶことはあるので、おそらくそういうニュアンスなのでしょうが、この当時のポルトガルや…
佐久間象山のもとで洋式軍学を習得した藤原重太(主馬)は藩主・松前崇広により西洋流砲術師範として任命されます。開明的な藩主が英才を重要ポストに抜擢する構図は明るい未来を想像させますが……。
今回の攻城団テレビでは「どうする家康」で忍者考証を担当されている山田雄司先生と編集者の佐藤強志さんをゲストにお招きして、忍者についてお話を伺いました。
今回はじめて知ったふたりの親子――藤原正蔵と藤原重太(主馬)の名前をぜひ覚えていってください。正蔵は間宮林蔵に同行し、重太は佐久間象山の弟子なので、有名人のすぐそばにいたふたりなのです。
まずは戸切地陣屋が築かれる前日譚として、幕末における松前藩の状況について。ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、これって有名?
よく言われる家康の三大危機のひとつが伊賀越えです。 個人的には本能寺の変のあと、ひとりでも味方が欲しい光秀に対して(ウソでもいいので)同盟の申し出をすれば東海道を素通りさせてもらえたのではないかと思うのですが、混乱中で交渉の時間もほぼない状…
この連載ではまだまだ知らない人が多い、あるいは存在こそ知っていてもその真価を理解できていないぼくのような人たちに対して、戸切地陣屋の魅力やすごさを北斗市郷土資料館の時田太一郎学芸員に解説していただきます。
大河ドラマでは「信長を殺す」と名言した家康ですが、史実では京に戻って知恩院で追腹を切ろうとしたと伝わっています。そもそも信長を殺すなら富士山見物の際に実行したほうが成功率は高いわけですしね。ただ秀吉が「やった奴がバカを見る(実行犯が損する…
昨日二条城で開催された「遠侍・勅使の間」の学芸員解説会に参加してきました。特別入室での見どころなども聞いてきたので、レポートにまとめました。
7月21日(金)から開催中の「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の内覧会に参加してきたので、イベントの内容をざっくり紹介させていただきます!
3月に大津市で安土城についてのセミナー「安土城復元研究の過去・現在・未来」が開催されました。このセミナーに参加された早稲田大学城郭研究会の中村優希さんにレポートを書いていただきました。
家康は野戦上手で攻城下手、といった評価がよく言われますがほんとうのところはどうなのでしょう。そもそも討死したからといってそれは一度の敗北を意味するだけですし、戦略と戦術、あるいは戦闘レベルのどの視点で評価するかでもかなり差が出そうですね。
四天王はもともと仏教における神々のことですが、聖徳太子(厩戸皇子)が大阪に四天王寺を建立したように日本でも飛鳥時代から信仰されていたようです。なお四天王のひとり、多聞天だけは単独で祀られることも多く、その場合は毘沙門天(びしゃもんてん)と…
NHK大河ドラマ「どうする家康」では新解釈の信康事件(築山殿事件)が描かれましたが、岡崎城周辺にあるふたりのゆかりの地レポートを京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに書いていただきました。 信康事件は謎の多い事件ですが、現在提唱さ…
「ケチ→倹約家」というのは「デブ→貫禄がある」のように大人の言い換えでしかないと思いますが、お金の使い所を知っている人と言えばまたちがう評価になりますよね。もっとも信長や秀吉など天下人と呼ばれるような人たちは全員その素質はあったと思いますが。
「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは忍城(埼玉県)と館林城(群馬県)。どちらも歴史的に有名なお城ですが、ここにも城もなかがあるんです。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!
三英傑の認知度がそれほど高くないという調査はじっさいそうかもしれないですね。ぼくも歴史に興味を持つまで知らなかったので。ホトトギスの創作はそれより有名ですが、近年の研究で信長は意外と我慢強いことがわかっているので、ちょっとした信長のネガキ…
日光東照宮に頼朝が祀られているのは知りませんでしたが、調べてみると明治維新後のことらしいです。創建当初は配祀神として左右に山王神・摩多羅(まだら)神だったものを、維新後の神仏分離により豊臣秀吉(左神)と源頼朝(右神)に変更になったそうです…
今回は「守護代」について榎本先生に教えてもらいました。守護に代わって分国へ赴任するのが守護代だと思っていたのですが、どうも在京したままの守護代もいたそうですよ。
コラムでは芸術への関心が薄かったと書かれてますが、たとえば家康が能や狂言を愛好していて、自らも演じています。た将棋や囲碁も好んだことは有名で、とくに囲碁においてはプロ棋士を誕生させた功績が評価されて日本棋院による殿堂入りを果たしています。
武家の当主にとって子どもを作ることは重要な役割のひとつでした。義務と言ってもいいかもしれません。コラムには伊達政宗の曾祖父、伊達稙宗が紹介されていますが、信長にも20人以上の子どもがいたとされます。家康の子どもたちひとり一人のドラマも見てみ…
多くの戦国大名と同様に家康にもたくさんの側室がいました。側室は「○○の方」と紹介されるため覚えるのが大変ですが、ドラマに登場すると役者のイメージで記憶できるのでいいですね。ちなみに関ケ原前後で年増好みが若い娘好みに変わったのはたんに家康本人…