ヨーロッパの軍学を取り入れた戸切地陣屋がどのようにここを拠点に防衛しようとしたのか、その構造についてじっくり説明していただきます。今回は図解もたっぷりです。
西方を「アナタヒラの崖壁」(『松前志』内の描写。「ヒラ」は「豊平」「赤平」「平取」など北海道の崖地形を有する地名に多く見られる、アイヌ語の「pira=崖」由来の語です。ユクエピラチャシの「ピラ」も同源です)の絶壁、北方・東方を深い沢と険峻な山地に守られた「野崎の丘」は、地形を活かした築城にとってうってつけの場所であり(図10・11)、江戸中期~後期の藩家老にして史学者であった松前広長(まつまえ ひろなが)が著した『松前志』(天明元・1781)や探検家・近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)が1807年(文化4年)に幕府に提出した『惣蝦夷地御要害之儀ニ付心付候趣申上候書付』およびこれに同行した田草川伝次郎による『西蝦夷地日記』、また松前の改築城に際し1850年(嘉永3年)に招聘され意見を求められた高崎藩の兵学者・市川一学(いちかわ いちがく)による『御城地之儀ニ付存寄申上候書付』などで、たびたびその地形条件・眺望を絶賛されています。
かつて星形の本陣ばかりが着目されてきた戸切地陣屋ですが、こうした資料精査により浮かび上がってきた情報をもとに、視野を星形本陣だけでなく「野崎の丘」全体に広げ、その城郭としての構造を図化したのが図12です。
これを見ると、「アナタヒラの崖壁」などの周辺の地形を巧みに防衛に活かし、攻め手が進軍するためには、星形本陣からの迎撃に有利な前方の見晴らしのいい緩斜面を選ばざるをえない陣形配置となっていることがおわかりいただけるかと思います。
さらに、これに当時戸切地陣屋に配備されていた各種砲群の射程範囲を視覚化し重ね合わせてみると、攻め手は「野崎の丘」の裾に到達した時点で本陣砲台からの火制範囲下に完全におさめられてしまうことがわかります(図13)。
つまり、従来「一稜のみ」と評価されがちであった本陣稜堡はその実「その一稜さえあればよい」場所に的確に配置されていることがわかります。
これに加え、丘の頂点に築かれた本陣は、当時日本では誰も築いたことがなかった、銃砲戦の歴史の中で進化を続けてきた稜堡式築堡術を採用した星形堡塁でした。
その土塁から壕までの断面構造は当時の洋式軍学における対砲戦防壁の構造に忠実な形状かつよりぶ厚く(後述する19世紀初頭の洋式軍学教本であるサヴァール教本において例示されている防壁厚は最大6メートルですが、戸切地陣屋のそれは最厚部で10mに及びます)、設計に際し想定していた戦闘の激しさと、それに耐えうる構造を与えようとしていたことが伺えます(図14)。
戸切地陣屋本陣のような稜堡式築城術・築堡術の砲戦における基本は、尖ったフェイス(堡塁稜線前面)間での十字砲火を行いやすくするだけではなく、ひし形構造をとることにより生まれるフランク(側面)から隣接する稜堡・稜角への援護砲撃を行い、死角を打ち消すことにあります(図15)。
戸切地陣屋唯一の稜堡は、このフェイス・フランクが的確に防衛すべき範囲をカバーしており、かつ仮に敵が接近した際も複数の稜堡・稜角による小銃群による十字砲火での迎撃が可能な構造であることを示したのが図16です。
以上を総合した、戸切地陣屋における攻防の状況をイメージ図化したものが図17です。
丘陵高台に備えられた対砲戦堡塁により緩斜面下位からの攻撃を防ぎ、逆に堡塁側からは攻めてくる敵部隊をすべてその視界と火制範囲下に置き、隠れる場所も左右の逃げ場もない領域に誘い込んで一方的に攻撃・殲滅することを可能にする(こうした領域を軍事用語で「キルゾーン」と呼びます)という、その攻めにくさ・守りやすさがおわかりいただけるかと思います。
この防衛構造は、当時すでに銃砲による近代戦へとシフトを始めていた世界の陸戦における戦闘の概念を、ここ日本においていち早く取り入れ具現化したものともいえるでしょう。
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