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【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

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榎本秋の家康の謎

徳川家康といえば、織田信長・豊臣秀吉と並んで愛知出身の「三英傑」のひとり――とスムーズに答えられたあなたは、もしかしたら東海地方の人かもしれない。愛知のテレビ局が最近調査したところによると、この呼び名は東海地方だけで流通している可能性がある。
新幹線の駅ごとに調査したところ、東は静岡で、西は岐阜と滋賀の境目あたりが限界で、それより先ではそれぞれ調査した10人のうち過半数が三英傑の名前を答えられないという結果が出た、という。
とはいえ、近年は大河ドラマで戦国時代後期をテーマに扱うたびに「三英傑」というワードが出てくるのが常態化しているため、他地方の方でもご存知の向きが多いだろうとは思うが(ましてや、攻城団のウェブサイトを見に来られる人なら!)。

ではこの三英傑、いつ頃誰が決めたものなのだろうか。
まず、そもそも「織田信長、徳川家康、豊臣秀吉の3人が天下人として1セット」という概念そのものは、江戸時代にはあったらしい。
「織田がつき 羽柴がこねし天下もち 座して喰らふは徳の川」という落首(狂歌)や、三英傑が詠んだという触れ込みのホトトギスの句――すなわち「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」が伝わっていることからもわかる。なお、3つの句は順番に信長、秀吉、家康のものとされ、残酷な信長、器用な秀吉、忍耐の家康という当時のイメージを知ることができる。

とはいえ、この頃のイメージは「3人の天下人」であって、現在のように愛知出身の「三英傑」、というものではなかったようだ。というのも、そもそも近世までの愛知は「尾張」と「三河」というそれぞれ別個の独立した地域であり、信長・秀吉と家康を同郷とみなす考え方がどうもなかったらしいのである。
となると、三英傑という言葉・概念の発生が愛知県の誕生後――すなわち1872年(明治5年)に名古屋県と額田県(三河)が合併してから後のことと考えられる。
実際、おそらく三英傑という言葉の初出であると考えられるのは、その7年後に刊行された水谷民彦『三傑年譜』という書物だ。その後、学者たちや財界人、文化人によって尾張・三河という本来独立していた地域を統合する象徴としての三英傑の存在が強調されていく流れの中で、「三英傑」というパッケージングが作られていったのではないだろうか。

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