主馬が寝る間もないほど東奔西走しているのはそんな松前藩の人材難を象徴してもいます。
こうして重太は象山のもと砲科運用を中心とした洋式軍学を修め上げ帰藩。1853年(嘉永6年)3月25日、藩主・崇広は重太を西洋流砲術師範に任命します。史書に遺る布達を分析すると、この任命以降、藩の軍制改革・海防強化の方針が洋式軍学に基づくものへと大きく転換していることがわかります(この頃、重太は崇広から与えられた「主馬(しゅめ)」に名を改めています)。
一方、藩内には洋式軍制が藩の中心となることにより自分たちの立場が損なわれることに不満を持つ旧来武術の使い手を主体とした勢力が存在し、彼らの強固な抵抗と、その抵抗が後々までの禍根となる片鱗も史書から伺えます。
翌1854年(嘉永7年)、前年に日本へ開国を求めて来航した代将(Commodore)ペリー率いるアメリカ艦隊が再び日本を訪れ、3月にはついに神奈川条約(日米和親条約)が結ばれ箱館・下田の開港が決定します。翌4月には箱館において開港にかかる諸条件の交渉がもたれ、藤原主馬はこの時、交渉役である松前勘解由(まつまえ かげゆ)らを補佐する応接使の筆頭として活躍します(ペリーらの通訳として同行したS.W.ウィリアムスは後に日記で「箱館で会った遠藤(又座衛門)翁と藤原(主馬)ほど気さくで心優しい男たちはどこの国にもいなかった(『A JOURNAL OF THE PERRY EXPEDITION TO JAPAN』)」と回顧しています)。
また主馬はこの交渉任務と同時に、5月2日に実施された藩全体参加の西洋流砲術稽古を差配する(『湯浅此治日記』および崇広筆主馬宛手簡より)など東奔西走の活躍を見せ(図8)、交渉終了時には米艦隊旗艦ポーハタン艦長マックラニーより「大輪船之図(火輪之図)」(外輪型蒸気船の設計図)を贈られています(『亜墨利加船箱館湊滞留中御用記事』『島津家国事鞅常史料』)。
この頃崇広から主馬に贈られた書簡が昨年ご子孫の手で大切に保管されていたことが判明しましたが(図9)、そこには主馬の東奔西走ぶりと、彼と「面会し勇説高論」を交わすことを「一日千秋ノ思」で待つ崇広の心情が記されているなど、当時の崇広の進める軍制刷新において主馬が大きな存在感を示していたことがうかがえるものでした。
ペリーとの交渉後も着々と軍制刷新は進み、松前城の改築竣工(10月1日)・領内各台場の西洋式への改築(12月14日)と、崇広・主馬らの努力を結ぶかに思われた1855年(安政2年)3月20日、幕府は蝦夷地の再直轄を決め、松前藩から木古内以東の領地を上知(没収)するとともに北方5藩にその分担防衛を委任。松前藩はそのうち箱館周辺の防衛とその統括拠点(陣屋)の築城を命じられます。
「松前藩単独による北方防衛の遂行」を目指し着々とその歩みを進めていた崇広らにとって、この決定は無念でもあり屈辱でもあったでしょう。主たる収入源である蝦夷地での交易圏を失うなど藩財政は危地にあり、陣屋竣工までの期限もそう長くはありません。しかしこの時松前藩が幸運であったのは、藩主が先進的な崇広であり、洋式軍学を修めた主馬がおり……そして、松前領内屈指の城地(じょうち)である「野崎の丘」が残されていたことでした。
いよいよ、「日本最初の星の城」戸切地陣屋が築かれます。
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