家康は生涯で16人、内訳としては十一男五女をもうけた。現代的な常識からすればとんでもない子だくさんだ。
ただ、戦国時代の大名、というよりも近代以前の有力者にとって子だくさんは別に珍しくもない話だった。例えば伊達稙宗は男女合わせて20人以上の子を作っている。もちろん、現代のように一夫一婦制でこれだけの子を為すのは難しい。大勢の側室がいたからこそ可能であったわけだ。
では、どうしてそんなに子を作るのか。
武家をはじめ、有力な家というものは存続のために当主の血を残すことを至上命題とする。
しかし、現在と比べて栄養・医療が未熟だった時代のこと、子どもはいつ亡くなるかわからない。戦乱の時代であれば長じてもポックリいってしまう可能性もあるわけだ。
結果、血を残す確率を上げるため、子どもは多ければ多いほどいい、ということになるわけだ。
そうして生まれ、運良く成長できた子どものうち、当主を継げるのは基本的にひとりだけ。
分家を建ててもらえるケースもそう多くはない。男なら仏門に入り、宗教・学術・外交で兄を支えることもある。
そして、政治的により積極的な子供たちの活用法として、男なら養子、娘なら嫁として家臣団や周辺武家に送り込むというものがある。これによって家と家の結びつきを高め、政治的な力を蓄積していくわけだ。
ただ、養子・嫁入り政策もいいことばかりではなく、先述した稙宗はあまりにも多くの家と関係を結びすぎ、そのせいでむしろ自分の子ども(およびその背景になった伊達家臣団)との関係が悪化してしまって、大規模な内乱で伊達氏を衰退へ導いてしまっている。
では、家康はどうだったのか。正室との間に生まれた長男・信康は跡を継ぐ予定であったが、その前に死ぬことになる(詳しくは以前のコラムを参照)。
次男・秀康は豊臣秀吉のもとへ養子として送られ、のちに結城晴朝の養子になる。家康の跡を継いだのは三男・秀忠だ。その秀忠と同母弟の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。
五男・忠吉は武田家を再興させてその当主に据えられるも、彼もまた若くして亡くなっている。六男の忠輝は大きな所領を与えられたものの、大阪の陣での振る舞いを問題にされて改易、流罪に処された。その弟として松千代という子がいたが、幼くして亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。
家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てられ、これがのちの徳川御三家になった(水戸は御三家に含まないという説も)。
一方、五人の娘については多くが政略結婚をした。長女の亀姫は奥平信昌に、次女の徳姫は北条氏直に(北条との関係破綻後、池田輝政に)、三女の振姫は蒲生秀行に(のち浅野長晟に)、という具合だ。ただ、四女の松姫と五女の市姫はそれぞれ夭折している。