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【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

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【時期】1613年(慶長18年)~1622年(元和8年)
【舞台】山形藩
【藩主】最上義光、最上家親、最上義俊
【主要人物】最上義光、最上家親、最上義俊

関ヶ原直後に起こった嫡子殺害事件がルーツ

この「最上騒動」はひとつの事件を指すものではなく、長年にわたって混乱した山形藩の情勢を指すものである。最終的に最上家は、1622年(元和8年)に改易となるのだが、そこにいたるまでには大変な紆余曲折があったのだ。

山形藩最上家内部の混乱は最初から――つまり初代藩主・最上義光の頃からすでにあった。
というより、さらに遡るなら最上氏は戦国時代の頃から内部対立が激しく、義光がその豪腕によって纏め上げることによって伊達氏などとも互角に戦える大勢力になった、という経緯がある。こう考えると、一代の英雄である義光の死後、最上家が崩壊へ向かうのは必然だったのかもしれない。

さて、義光は豊臣政権下にあった大名だが、豊臣秀吉がまだ生きていた頃からすでに徳川家康に傾倒していた。
豊臣秀次の側室になったばかりの自分の娘が秀次事件に連座して処刑されると、家康への傾倒はより一層強くなり、秀吉死後の「関ヶ原の戦い」では上杉方の直江兼続の部隊と戦い、これを破った。

この関ヶ原の戦いでの功績が認められ、57万石の領地を安堵された義光によって成立されたのが、山形藩である。
義光は山形城の築城や城下町の整備などに取り組み、特に治水工事に力を尽くした。しかし1613年(慶長18年)頃から義光は体調を崩し、寝こむことが多くなった。死期を悟った義光は、最後の挨拶として駿府の大御所・家康と江戸の将軍・秀忠のもとへ赴き、自分の死後の最上家のことを託してから、1614年(慶長19年)に息を引き取った。

家督を継ぐのは、本来なら長男の義康(よしやす)となるはずだった。
しかし義康は、1603年(慶長8年)に義光によって惨殺されている。最上家がその後没落していくのは、そもそもここに端を発しているといってもいい。

義光と義康の仲が険悪になった原因は、家臣にあった。
義光に仕える里見権兵衛と、義康に仕える原八左衛門――この2人が最上家の転覆を謀ったというのだ。理由は、彼らが関ヶ原の戦いの前に密かに石田三成と通じており、主家を転覆させれば出羽一国を与えるという密約を交わしていた、などとも言われているが、真相はわかっていない。

里見と原が、義光・義康父子の仲を裂こうとしたのは間違いないようで、それぞれ相手のことを讒言するという方法で互いに憎みあうよう仕向けたのだった。決定的な要因となったのは、義康が酒宴を開いて踊った際に、脇差しが彼の左の股に触れて小さな傷を負った。
この傷について、里見が「家督をなかなか譲られないことに憤り、切腹をはかろうとした」などと義光に報告したため、父子の間の溝が深まってしまったのである。

義光はこのことを大御所・家康にも伝えた。すると家康も義康に対する不快感をあらわにし、「そのような者は切腹させた方が良い」と義康の処分を命じたという。義光はこれに従い、まず義康を城におびき出して出家を言い渡し、それに従って高野山に向かおうとする道中に義康を襲撃させ、殺害した。

だがその後、里見と原が父子の仲を裂くために讒言を行ったことが発覚し、里見・原の両名とその一族は処刑された。義光は義康を死に追いやったことを後悔し、ひどく嘆き悲しんだと伝えられている。
こうして最上家の家督は義康の弟である家親(いえちか)が継ぐこととなったのだが、実はこの家親というのが近侍として家康に仕えており、大層可愛がられていた。そのため、家康のお気に入りに家督を継がせて最上家を安泰にするために義康を殺害したというのが真相ではないか、とも言われている。

二代藩主・家親の毒殺疑惑が幕府で問題化し改易の憂き目に

家親は家督を継ぐために帰藩し、山形藩2代藩主となった。
ところがまたしても騒動は起こる。家親が藩主となったその年に、庄内添川館主の一栗兵部という者による反乱が起きたのだ。

この事件は秀忠に仕えて徳川家に与する家臣を討ち取り、豊臣家に取り入ろうとしたことから起きたものとされる。
反乱自体はそこまで大きな騒動とならなかったのだが、家臣の中には最上家が徳川家と親しくすることに不満を抱く者もいたようだ。

1617年(元和3年)にその家親も急死し、彼の子である義俊(よしとし)が12歳で跡を継いだ。家親の死因ははっきりと分かっておらず、病没とは言われているものの、あまりに突然の死だったことから毒殺したのではないかという噂も立っている。
この毒殺説の犯人とされているのは、家親の弟にあたる山野辺義忠(やまのべ・よしただ)だ。義忠が最上家の家督を奪いとるために、鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな)と楯岡甲斐という2人の家臣を動かし、家親を暗殺したのではないかということだ。

実際、家親は亡くなる直前に鷹狩りに出かけており、その帰りに楯岡邸に寄ってもてなされている。
そしてその日を境に家親の具合が悪くなり、間もなくして亡くなったというのだ。
家親の死後、まだ家内を統率する力のない義俊のもとで、家臣同士の対立は深まっていった。そして1622年(元和8年)、この家親毒殺が幕府に訴えられたことで、ついにその対立が表面化することになる。

もともと幕府は、最上家が穏やかでないこととその上に立たなければならない義俊のことを憂慮し、いくつかの幕命を出している。内容は、揉め事が起きた時には幕府に相談をすることや、義光や家親の時と同じ法律を使うなどといったものだ。つまり、幕府によって藩政を監督するという異例の処置が行われていたのである。

ところが、それでも騒動は起こってしまった。
家親毒殺疑惑を幕府に訴えたのは、鮭延たちと対立していた松根備前守という家臣だ。この訴えは明確な証拠がないということで退けられてしまうが、これによって幕府は最上家の危機を感じ取り、山形藩に島田弾正と米津勘兵衛という2人を使いとして送った。

すると鮭延が、義俊はまだ幼い上に病弱だという理由で、代わりに義忠を当主にしたいという意向をあらわにする。
これを島田と米津が将軍に伝えたが、幕府は最上家の騒動はもはや収拾がつかないと判断し、一旦領地を召し上げた上で義俊の成長後に返還するという返答をした。こうして最上家は改易となり、義俊は近江1万石に移された。義忠や彼を擁立しようとした家臣らも、他家に預けられている。

ちなみに、義忠は岡山藩池田家に預けられた後に御三家の一角である水戸藩徳川家の家老になっており、「水戸黄門」のモデルとして名高い徳川光圀の養育係にまでなったという。
義俊はその後、26歳の若さでこの世を去っている。跡を継いだ子の義智が旧領を取り戻そうとしたがそれもかなわず、「義康の呪いで最上家は再興できない」などと噂されたという。

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