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【江戸時代のお家騒動】細川重賢の財政再建 質素倹約藩主が挑んだ宝暦の改革

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【時期】1752年(宝暦2年)~1785年(天明5年)
【舞台】熊本藩
【藩主】細川重賢
【主要人物】堀勝名(平太左衛門)

危機的状況の熊本藩で五男坊の重賢が藩主に

この項目のタイトルが「○○事件」「○○騒動」、「○○の乱」でないことを不思議に思われるかもしれない。
実際、細川重賢の治世は表にあらわれるほどの大事件や抗争を発生させなかった――「お家騒動」はなかったのである。

にもかかわらず本連載で紹介するのは、事件にならずとも対立・抗争は確実に存在したからだ。
そしてその背景にあったのは「主君の信頼を得た新興勢力と、既得権益を守ろうとする保守勢力」の反目であったわけで、構図としてはこの章で紹介しているお家騒動の数々と何も変わらない。そのため、比較対象としてここに紹介する。

細川重賢は熊本藩主・細川宣紀の子ではあったが、あくまで5男であり、家を継ぐべき立場ではなかった。
ところが4人の兄のうち3人が次々と亡くなって、4男の宗孝が5代藩主となると、重賢は宗孝の仮養子となる。そして、その宗孝は旗本寄合の板倉勝該に人違いで斬られ、死んでしまった。思いもよらぬ事故が連続したわけだ。

こうして重賢が細川家をリードしていくことになったわけだが、部屋住み時代はずいぶんと貧しい生活をしていたようで、多くのエピソードが残されている。

ある夏、重賢は川へ泳ぎに出かけた。ところが替えのふんどしさえない有り様で、ふんどしが乾くまで待ってから帰宅したとある。それ以外にも穴のあいた蚊帳を自分で繕ったり、外出先で鼻紙がないため家臣に借りたという話があるほど貧しかった。
そんな彼の極貧生活は藩主となった後でも役に立っていたのだろうと考えられている。質素倹約を旨とする政策を打ち出し、自ら実践。派手な生活を好まない気質はこの頃芽生えたのかもしれない、というわけだ。

ただ、仮にも藩主の子である重賢がここまで貧乏生活をしなければならなかったのは、藩全体の財政逼迫とも無縁ではなかったろう。
この時期の熊本藩は「金気の強い新品の鍋に『細川』と書けば『金』気がなくなり、使いやすくなる」などと巷で語られるほどの財政難に陥っていたのである。そのため、家督を継いだ翌年の1748年(延享5年)に藩主として初めて肥後入りを果たした重賢は、なんとしても藩を改革し、財政を再建しなければならなかったのだ。

もちろん、藩主1人では改革などできるはずもない。右腕となって活躍する優秀な人材が必要だ。
重賢にとってのそれは用人(大名と家中の連絡役)・堀平太左衛門勝名であった(通称の「平太左衛門」で有名なため、以後こちらで通す)。同じく用人の竹原勘十郎が重賢に推挙したと言われている。
堀家は先祖代々細川氏に仕えていた家臣でもなければ、土着の有力者でもない。寛永年間のあたりで先祖が細川氏に仕え始めたと言われている。
1733年(享保18年)父・勝行の隠居に伴って、平太左衛門は18歳で家督を継いだ。勝行の領地は5百石程であったという。
しかし、彼は日頃から熊本藩の財政難を憂えており、策を練っていたそうだ。

刑法や教育、農政の改革を断行し成果を上げる

1752年(宝暦2年)、重賢は数十年廃止されていた大奉行という役職を復活させて平太左衛門をこの地位につけ、さまざまな改革を行わせた。いわゆる熊本藩の宝暦の改革の始まりである。
まずは1755年(宝暦5年)、刑法の改革が行われている。これまで刑法の処罰には死罪と追放の2つしかなかったが、追放された者は生活が困難になり、再犯率が上昇して問題となっていた。
そこでそれまであった追放をなくし、新たに墨刑、笞刑、徒刑が加えられている。徒刑は労働力として使っていたと言われ、財政難の藩で利用していた。

次に同年、衣服制度細目を定め、質素倹約を広く発布している。
これは階級によって着るものを分ける制度で、封建制度を再認識させるのにも一役買った。
1755年(宝暦5年)には藩校時習館を、1757年(宝暦7年)になると医学や薬学の学校として再春館を建設して人材育成にも力を入れていたことが窺える。

さらに、当時支出が収入を上回っていた熊本藩の財政を再建するために、藩の財政の基盤となる農政の改革も行われた。
専売仕法といって、農民の商品作物を藩が買い取って、管理、流通を行った。これによって藩の財政を潤すとともに、農民は余計な資本を蓄えられなくなる。
こうしたことから専売仕法は推し進められ、櫨蠟がその対象となった。

一方で、財政と人材育成のために知行世減の法が制定されている。
これは藩士の家格によって知行の相続を減らすものである。代々相続してきた土地は継承させたが、褒美として新しく手に入れた土地は相続させなかった。これによって今まで加禄不足だった藩に十分な土地が確保され、頑張り次第では加禄を受けられる状況を作り出し、家臣たちは任務に真摯に取り組むようになったとされる。
さらに1757年(宝暦7年)には地引き合わせ(検地の一種)が実施され、隠し田畑の発見に貢献した。

斬新な人材登用に巻き起こる保守派の反発

これらの改革は財政再建に一定の効果をあげたが、なにもかもが順風満帆だったわけではない。
平太左衛門という「どこの馬の骨とも知れぬ」男を重用したのだから、譜代の家臣たちを中心に藩内部に少なからず反発が生まれ、対立が起きるのはむしろ当然の現象といっていいだろう。平太左衛門は1765年(明和2年)に家老となっていたからなおさらだ。

たとえば平太左衛門の大奉行就任に際しては目付の1人が「堀に三つの悪事あり」と重賢に訴えているし、随分後のことになるが1774年(安永3年)にも十八ヶ条にわたる批判が重賢のもとに届いている。
しかし、重賢はあくまで平太左衛門を信用し、重用したため、これらの批判は効果を発揮しなかった。

より直接的な行動としては、藩の重鎮である3家老の力で平太左衛門を排除しようという動きがあり、またその3家老の家臣が平太左衛門どころか主君である重賢までも呪い殺そうとして発覚する事件まで起きてしまっている。しかし、これらの動きもすべて失敗し、改革は進んでいった。

こうなれば反発はさらに陰にこもるようになる。
たとえば、平太左衛門の屋敷の門前に、ある時「赤い脚絆を巻き、馬を引いて門に入ろうとしている人形」が置かれていた。家臣たちには何のことかわからないが、頭の回る平太左衛門はすぐにこの意図を読んでうなずいて見せる。

「門に入る」のは「政治の表舞台から家へ引っ込め」の意であり、「赤い脚絆」は「足元が明るいうちにしろ」の意味。つまり、さっさと政治から手を引かないと足元が暗くなったときに(これは夜の意味にも、また政治的な体制が有利なうちにという意味にも取れる)ただではすまないぞ、という脅迫であったわけだ。
しかし平太左衛門はこれに余裕を持ってうなずいて見せたわけで、その大人物具合がよくわかる。

また、平太左衛門と同じように大奉行から家老へ出世した人物として、清水清冬という男がいた。
2人は協力し合って改革を進めたのだが、そうなれば批判の矛先は彼にも向かう。そこでこんな落書が書かれた――「五家老の六人よりて無分別しみずほりのけ跡は四家老」。そのまま読めば「清水と堀がやめれば残りの家老は4人だ」程度の意味だが、無分別の「無」は「六」につながり、かつ「四家老」は「よかろう」になる。
すなわち、「家老6人の体制はよくない、4人になればいいだろう」というわけだ。

大小の批判・反発はありつつも重賢が1785年(天明5年)に亡くなるまで改革は続き、さらにその後も平太左衛門らによって政治方針は継続された。
ついに大規模な事件へ発展することがなかったのは、重賢らの統治能力が高かったのか、それとも熊本藩の財政がそこまで危機的であり、「争っている場合ではない」という危機感が共有されていたのか、理由はいくつも考えられる。

この一連の改革は『肥後物語』という本を通して広く知られるようになり、「麒麟」と称えられた紀州藩主・徳川治貞に対して重賢は「鳳凰」と呼ばれ、これに米沢藩主・上杉鷹山を加えた3人が江戸中期の名君として高い名声を獲得することとなった。
しかし、重賢および彼の改革が常に賞賛されたわけではない。たとえば天明年間の飢饉においては阿蘇郡で2000人の餓死者を出し、古川古松軒という人物が『西遊雑記』において「賢君・良臣の噂を聞いていたが、餓死者を救わず、多くの被害を出したことで失望した」と痛烈に非難している。

また、改革そのものについても、成果を出したとはいえそれは衣服制度細目に象徴されるように「封建制度の強化を前提にした改革」であり、庶民のためのものにはなりえなかった。
これが封建制度における上位者である武士たちの反発が少なかった真の理由かもしれないが、一方で「後の幕末期において熊本藩で社会改革が進まなかったのはこのときになまじうまくいき、封建制度が強化されたからだ」とする意見もまたある。

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