【時期】1647年(正保4年)
【舞台】弘前藩
【藩主】津軽信義
【主要人物】津軽信義、津軽信光、北村久左衛門、富岡武兵衛、村山七左衛門
藩主排斥未遂ののちに刃傷事件も勃発
弘前藩の3代藩主・津軽信義(つがるのぶよし)の時代には二つのお家騒動が起きている。
前に紹介した船橋事件と、ここで紹介する津軽騒動(正保の変とも呼ばれる)がそれにあたる。船橋事件は家臣同士の対立だったが、この津軽騒動は藩主自身が排除の対象となった。
事件が起こったのは1647年(正保4年)、船橋事件の主要人物の1人である兼平伊豆が死去した翌年のことである。
信義には数人の弟がいたが、そのうち4弟にあたる信光らが、信義を強制的に隠居させ次弟の信英にその座を譲らせようと謀策を立てたのだった。
信義を押し込めようとした理由については、彼の不行跡が原因だという。
しかし船橋事件でも紹介したように、信義の奇行については創作が多かったため、この「不行跡」という理由についてもどこまでが本当のところかわからない。何か他にも原因があって、信義を隠居させたかったのかもしれない。
この企ては未遂に終わった。
計画に加担していた北村久左衛門という家臣が、仲間を裏切って信義に陰謀を密告したのである。
一説には、三弟の信隆も北村とともに密告したといわれているが、陰謀を企てたメンバーは史料によってまちまちであり、信隆は最初からこの計画に反対し加担していなかったというのが正しいようだ。
密告を受けた信義は激怒し、陰謀を企てた者たちの処罰に乗り出した。
まず信光に流罪が言い渡され、同じく計画に加わっていた五弟の為盛に対しては、閉門蟄居とした後に切腹が命じられている。七弟の為久も、家禄没収の上に蟄居処分を受けた。
そして従兄の富岡武兵衛も流罪ののちに切腹を命じられたのだが、この富岡の死が第二の騒動を引き起こす。
翌年の1648年(慶安元年)、弘前城で刃傷事件が発生した。
この事件で命を落としたのは、先の陰謀を信義に密告した北村だ。そして下手人は、富岡の友人であり彼の切腹時に介錯を行ったという村山七左衛門だった。
実は富岡の切腹時に、村山が彼に対して「無念は必ず晴らしてやる」と告げたというエピソードが残っている。
村山が北村を斬ったのは乱心したからだとされているが、このエピソードが事実だとすれば、富岡の仇討ちだったというのが真相かと思われる。村山もその場ですぐに斬り殺され、騒動は収束した。
余談になるが、信義はこの排斥未遂事件の後と刃傷事件の後に、三弟である信隆に対して合わせて8百石の加増を行っている。
これは信隆を懐柔するのと同時に、信英擁立派の者たちに対する牽制の意味が込められていたのではないかと思われているのだが――さて、真相はどうだったのだろうか。