【時期】1723年(享保8年)~1754年(宝暦4年)
【舞台】加賀藩
【藩主】前田吉徳、前田宗辰、前田重熙
【主要人物】大槻朝元、前田直躬、青地礼幹、真如院
先代「ぜいたく大名」の財政危機を受けて立て直しに挑む
別名「大槻騒動」とも呼ばれるこの事件は、加賀藩前田家の家臣・大槻朝元(おおつきとももと)を中心に勃発したものだ。
他のいくつかのお家騒動と同じように、この事件も脚色されて人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となっている。その場合、大槻は加賀藩乗っ取りを企む奸臣として描かれることがほとんどだが、実際のところはどうだったのだろうか。
まず、大槻の簡単な経歴を紹介していく。
彼は「伝蔵」「内蔵允」などの通称で知られており、14歳の時から当時の加賀藩主・前田綱紀の子である吉徳に、居間坊主として仕え始めた。大槻は才知に恵まれたために吉徳の寵愛を受け、1723年(享保8年)に綱紀が隠居し吉徳が藩主になると、より一層重用されるようになる。
その出世はめざましく、17年間の間に加増を繰り返し、その禄高は最高の時で3800石にまで達したと言われている。
当時、藩の財政は逼迫していた。先代の綱紀は文化政策を推進したものの、そのために財政が赤字となり、「ぜいたく大名」などと呼ばれていた。
そのため吉徳は、まず財政改革から行わなければならなかった。財政状況を把握した上で倹約令をしき、かつて前田利常が行った改作法を再び行うことで、立て直しをはかろうとする。
そしてこれらの政策は、体調の優れない吉徳に代わって大槻が執り行った。
大槻は豪華な生活の抑制のほか、日雇い人の仕事を家中の者にさせるなどの倹約を行った。また今まで掃除人が馬などの糞を売って生活費の足しにしていたが、それを止め、糞を売った金を飼料の費用の足しにした。
このように今まで当たり前にしていたことの中から無駄を見つけて排除していったのである。そのほか、新規の課税を立てたり大坂で借銀を調達したりと、大槻の政策は多岐にわたった。
ところが1732年(享保17年)、西日本を中心に発生した虫害によって加賀藩も不作に陥った。
この時、藩は貸し米などで対応したものの、その措置が充分でなかったとして農民らの不満を呼び、百姓一揆が勃発。中でも1735年(享保20年)に起きた打ち壊しは、吉徳の政策の中心にいた十村与三右衛門が襲撃されたということで、改革に対する農民らの反発心があらわになった。
藩主・吉徳死後、前田家一門の直躬が台頭
このような状況を背景に、大槻に対する批判の声を高めていった者がいる。年寄役の前田直躬や、大小将組頭の青地礼幹といった者たちだ。
彼らは先代の綱紀の頃より仕えていた古参である、直躬や青地が大槻を批判したのは、彼が主導し政策に対する不満もあるが、それ以上に新参者である大槻が急に台頭してきたことに対する嫉妬が大きかったと思われる。
特に直躬は、藩祖である前田利家の次男・利政の血を引く家系であり、そのためか本家の吉徳にも対抗意識があったようで、ことあるごとに反発していた。
1734年(享保19年)頃からは、直躬が本家のシンボルである剣梅鉢紋を正装や道具類などに用いるようになり、このことを吉徳に咎められている。いくら藩祖の血を引くとはいえ、直躬は本家にとって一家臣にすぎない。藩主家と同じ剣梅鉢紋をつけるなど、あまりに出すぎた真似だった。
このようなこともあって吉徳も直躬を警戒していたようだが、彼ら大槻批判派は結局のところ、吉徳の生前は大きな行動には出なかった。
吉徳の長男である宗辰に接近し、大槻らを批判する意見書を提出したりしているが、その程度である。また自分たちから大槻らに対抗できるような政策を提示したりもしなかったので、批判を唱えても大槻の台頭を抑えることはできなかったのだ。
しかし1745年(延享2年)、吉徳の死をきっかけに状況は一変する。
ここぞとばかりに直躬は「吉徳が病床に伏せていた間の大槻の品行が良くなかった」と彼を糾弾。転勤を命じた上、翌年には蟄居を命じたのである。さらにそれだけでは終わらず、1747年(延享4年)には流罪を申し付けられたのだった。
後継者争いの果てに藩主毒殺未遂事件も
事件はこれだけでは終わらなかった。大槻の糾弾と並行して、ある毒殺未遂事件が起きていたのである。
吉徳の跡を継いだのは長男の宗辰であったが、彼も家督相続からわずか1年で、22歳の若さで急逝してしまう。突然の死だったために、後継者もまだ決まっていなかった。
そこで宗辰の死を隠したまま、彼の異母弟である重熙を養嗣子として幕府に届け出ることで、後継者とした。
こうして8代藩主となった重熙は、祖父にあたる綱紀の藩政を理想とし、意欲的に藩の運営に取り組んだ。
ところが1748年(寛延元年)、江戸藩邸において重熙の茶に毒薬が入れられるという事件が発生。未遂に終わったものの、すぐに犯人が洗い出された。まず捕らえられたのは浅尾という女中で、彼女を問い詰めたところやがて主犯が浮上する。それは、吉徳の側室の真如院という女性であった。
真如院は、重熙の生母・心鏡院の血縁者(一説には姉妹とも)といわれている。
しかし心鏡院は早くして亡くなってしまったために、重熙は宗辰の母親である浄珠院に育てられることになった。
そしてこの毒殺未遂事件は、真如院が自分の子に藩主を相続させたいがために、浄珠院と重熙の排除を狙って起こしたものとされている。
事件後、真如院は捕らえられ、その処断について話し合いが行われた。
その結果、真如院とその男子ら2人の幽閉が決定される。この時、真如院が流罪となっている大槻と密通していることが発覚した。毒殺未遂事件についても、大槻との申し合わせによって行われたという可能性も浮上する。
大槻は流罪となった後も各方面に情報ルートを張り巡らし、配所にありながら毒殺未遂事件のことも情報を入手していたと思われる。
それから間もなくして、大槻が配所にて自害した。
また真如院も、その翌年に没している。重熙毒殺未遂事件については、真如院の子を相続人の座から引きずり下ろすための、吉徳の奥方同士の権力争いだったともいわれている。
しかし当事者たちの死によって、真相はわからないままとなってしまった。
歌舞伎や浄瑠璃に脚色された加賀騒動
以上が加賀騒動のあらましであるが、芝居や小説で流布された加賀騒動は事実とは大きく異なっている。
脚色された加賀騒動では、大槻が藩主殺しを謀った大罪人として描かれ、直躬らはそれを阻上した忠臣となっているのだ。
あらすじとしては、まず吉徳の重臣として台頭した大槻が、その側室である真如院と恋仲になり、彼女の子を後継者にしようと企てた。そのために吉徳、宗辰を暗殺し、続いて重熙をも毒殺しようとする。
しかしそれに気づいた直躬たちの活躍によって、重熙暗殺は失敗に終わり、真如院と大槻の関係も明らかとなる。大槻や真如院、それに加担した者たちはすべて処罰され、めでたしめでたしという話だ。
なんともわかりやすい勧善懲悪ものとなっている。
この時、重熙毒殺を実行しようとした女中・浅尾が蛇責めにされて殺されたというシーンがあり、この残酷な描写が見所のひとつとして評判を呼んだ。が、これももちろん脚色である。
1780年(安永9年)に、奈河亀輔の『加賀見山廓写本』によって劇化された加賀騒動は、その後も大衆向けに様々な脚色が施された形で上演されていった。
歌舞伎や人形浄瑠璃でも多くの上演がなされたが、これらはむしろ派生作品の方が有名だ。容楊黛の『加賀見山旧錦絵』などがそれにあたり、別の藩邸で起こった3人の女の不和を、加賀騒動に重ね合わせる形で描いている。
近年では加賀騒動の史実が見直され、直躬を善玉、大槻を悪玉とした解釈は大きく見直されているが、このような脚色が行われた陰には、やはり加賀藩の政治の乱れに対する民衆の不安が表れているのではないか、と推測することができるのだ。