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【家康の謎】家康は戦に強かったの?

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榎本秋の家康の謎

家康は戦に強かったのか――この質問に答えるためには、まず重大な定義をしなければいけない。それは「戦(いくさ)に強いって何?」である。
果たしてどのような条件を達成していたなら、「戦に強い」と言えるのだろうか。
これが「信長の野望」や「太閤立志伝」といったゲームなら「統率」や「武勇」と言った数字で戦の強さをパッと見ることができる。ちなみにこれらのゲームで家康の戦関連能力はあらかた90台後半で、ゲーム制作者たちが家康の戦の強さを高く評価していることがわかる。

とはいえ実際のところ、戦の強さ弱さについて定量的に計測するのは難しい。
数少ない手掛かりは戦績――つまり、どれだけの戦いに勝利し得たか、というところであろう。
では、家康の戦績はどのようなものか。調べてみると「51戦31勝13敗7分」をはじめどうも数字が一致していない。たとえば以前こうのさんが攻城団ブログで紹介されていたが「カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99」(かみゆ歴史編集部、イースト新書Q)では合戦リストとともに「51戦33勝11敗7分」という計算結果も導き出されていた。

blog.kojodan.jp

ブログ記事でも指摘されている通り、これらの計算結果には少々疑義がある。
家康が同盟を組んだり、あるいは連合軍の一員として参加した戦いについてまで家康の戦績に加えていいのか。具体的には「桶狭間の戦い」は家康にとって敗北なのか、あるいは大高城への兵糧入れに成功したから勝利なのか。
また、戦国時代の合戦は複数の戦いがまとまってひとつの戦いに計算されるものが多い(関ヶ原の戦いなどはまさにそうだ)が、どの戦いは別にし、どの戦いはひとつにまとめる基準はどうするか。そのため細かい数字は人によって変わるだろうが、とりあえず家康がたくさん勝った武将だったことは動かないだろう。
ただこれも「そりゃ天下人になるためには負けっぱなしというわけにはいかないだろう」と言われればそれまでの話である。

そもそも家康の「戦が強い」というイメージには、いわば徳川史観的な構成の徳川家臣団および江戸幕府による粉飾の影響も小さくないはずだ。
私たちが家康の戦いについて知る手掛かりとして、徳川家臣団の残したものや幕府の公式資料らは欠かせない。そして、例えば姉川の戦いなどでの徳川軍団の活躍に「これはちょっと徳川家へのよいしょが入っているのではないか?」という疑いがあるように、「家康が戦に強い」というのは「天下人になるような人は強いに決まっている」「家康様は強くて当然」という後世からの改変が入っているのではないか、と疑えてしまうのだ。

だからといって、家康が戦に弱かった、と言ってしまうのも無理がある。
家康は三河一向一揆によって家臣団が切り崩されても、そこから立て直すことができた。武田信玄や勝頼らに圧されても、ギリギリのところで領土を守り、最終的な逆転に繋げた。また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)とは小牧・長久手の戦いで互角以上の戦いを演じ、それは豊臣政権における優位(ひいてはのちの天下取り)に繋がった。
このように、家康は決して戦に弱い武将ではなかったろうが、「強かった」かどうかと言われると「歴史の彼方のことであってよくわからない」というのが正直な答えである。

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