大河ドラマ『どうする家康』でもそろそろ豊臣政権による北条攻め、そして家康の領地が東海・中部の五ヶ国から関東の八ヶ国へ移り変わる時期が近づいてきた。
のちにこの関東の地こそが250年の大平を築いた江戸幕府の基盤になったわけだが、転封当時に家康とその家臣団は一体どのように受け止めていたのだろうか。
後世の私たちの目で考えると、五ヶ国が八ヶ国になったのだから大加増(石高としてはほぼ倍)ということになる。単純に喜んでいいように思える。
しかし、一方で当時は京都こそが日本の中心であり、その近辺の近畿地方こそが「天下」。天下から離れれば離れるほど文化は衰え、豊かでなくなるという考え方があった。東海地方は天下の中には入っていなかったが、東海道でしっかり結ばれている場所だ。そこから関東へ移ることは格落ちである、という考え方もあったろう。
何よりも、家康傘下で五ヶ国を支配していた諸武将たちは、基本的には先祖代々その土地に結びついていた武将たち(国衆)である。加増の可能性が高かったとしても、父祖の土地から引き剥がされることへの苦しみも多分にあったのではないか。実際、家康も家臣団も秀吉の命令に逆らえず、泣く泣く三河をはじめとする東海地方から離れ、関東へ移ったと言われている。
ではどうしてそのような辛い目に遭わなければいけなかったのかといえば、「秀吉による嫌がらせ」「危険な存在である家康を遠くへ追いやり、その力を削ることが目的だった」――というのが、広く知られた説であろう。
ただ、近年の研究では、この「秀吉の命令によって無理やり移された徳川家臣団」という見方は間違っている、と考えられている。
もちろん、豊臣政権の命令であるため逆らえないことは前提にあったろうが、徳川側にもそれなりの事情があって受け入れたのではないか、たとえば関東ひいては江戸が流通や今後の発展という点において現代の私たちが考える以上に価値が高かったのではないか、とみるのだ。
さらに面白いのが、家康に負い目があったから関東へ入ることをすんなり受け入れたのではないかという見方である。この説によると、家康は北条氏との取次を担当していたが、豊臣・北条関係をソフトランディングさせることができず、関東を荒廃させてしまった。その責任をとって関東へ入ったのではないか、というのである。
他にも、石川数正の出奔やそもそもの急激な領地拡大によって、徳川家としては家臣団の再編・内部統制の強化の必要に迫られていたはずだ。そこにおいて領地の全取っ替えはちょうどいい機会として働いたのではないか、とも考えられる。