信濃の上田城(長野県上田市)は、小勢が籠もって大軍の攻撃を撥ね返した城である。しかも二回――両方とも徳川の大軍を相手の大立ち回りであった。
上田城を領する真田氏が俗に「徳川の天敵」などと称される所以であるが、まずここでは「第一次上田城の戦い」について紹介したい。
上田城は1583年(天正11年)、武田家臣の真田昌幸が城郭として整備したと伝えられる。
それ以前にも昌幸の父である幸隆(砥石城の攻略で知られる)がもともとこの地にあった常田氏の居館を整備しているが、城郭としての上田城は昌幸の手によるものだ。山を背にした平城で、かなりの規模であったと考えられるが、詳細はわからない。
しかし、上田城は完成してすぐに戦火に晒されることになる。この時期、武田氏の滅亡に本能寺の変での織田信長の死と大事件が頻発し、中部地方は実質的な空白地帯となってしまったからだ。
結果、上杉氏・北条氏・徳川氏の三勢力がこの地域に手を伸ばしてくる。これに対し、昌幸は丁々発止のやり取りを繰り広げながら自らの領地を守り、それどころか隙あらば拡張する離れ業を見せた。
それだけ目立てば、やはり危機に陥ることも増えるというもの。
1585年(天正13年)、徳川・北条間の交渉で「信濃は徳川、上野は北条」と支配権に対する同意がなされると、真田氏が上野に得ていた領地が問題になった。この時期、昌幸は一時的に徳川の傘下にあったので、当然のように徳川家康は領地の明け渡しを命令してきた。
もしこのとき昌幸が素直にこの指示に従っていたら、その後真田氏は徳川家臣としてあまり波乱なく戦国時代を生き延び、江戸時代に入っていたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
昌幸は「あくまで自分の力で得た領地であり、返還すべき理由はない」と独立大名としての衿持を見せた。理由のひとつには、徳川・北条間の交渉が成立したとしても、残る有力勢力である上杉氏がいて、これを頼ることで十分抵抗することができる、と判断したことがあったらしい。この後、真田氏は上杉氏に接近している。
もちろん、家康がこのような勝手(徳川氏との立場からすればそうなる)を許すわけもない。北条に対する責任も果たせないし、真田と同じような国人領主に対する示しもつかない。なによりも、真田は徳川の面子を傷つけた――不安定な基盤の上に立つ戦国大名にとって、面子の問題は現代の私たちが考えるよりはるかに重い、というのは第一部で紹介したとおりだ。
かくしてその年の内に、家康は鳥居元忠・大久保忠世らに7千の軍勢を与え、上田城を攻撃させた。守る真田勢は2千とも3千ともいい、戦力では圧倒的に不利であった。
しかし、昌幸は武田家臣時代にかの武田信玄より「我が目の如し」とまで称された男である。それほどの男が、堂々と大大名を敵に回したのだ。勝算がなければそんなことをするはずもなかった。
この時、昌幸が仕掛けた罠は二つ。ひとつは、守るのに便利な川沿いに兵を置かず、徳川軍があっさり城内になだれ込めるようにしたことだ。肩透かし感もありつつ勢いに乗って二の丸の石垣まで押し寄せたであろう徳川軍は、そこで激烈な抵抗にあった。銃弾や弓矢、大石が雨あられと降り注いだのだ。それまでの勢いが強ければ強いほど、このカウンターパンチは有効であったはずだ。
ひるんだ徳川軍に、昌幸の更なる罠が襲い掛かる。上田城の北東に、砥石城という城があった、ここにひそかに潜ませていた昌幸の嫡男・信幸(信之)が、タイミングを見計らって出撃、徳川軍の背後から突撃したのだ――もちろん、時を合わせて昌幸自身の率いる軍勢も城内より打って出て、徳川軍を挟み撃ちにする。
いくら兵力の差があっても、これだけ見事に挟み撃ちをされてしまっては戦いようがない。
来た道を引き返そうと思っても、そこには川が横たわっている。最初は難なく渡れた川だが、真田軍の集中砲火を受けつつではそうもいかない。結果、徳川軍は大損害を受けてしまったのである。
この戦いの後、両者の関係は修復された。しかし、後に再び上田城は徳川軍の前に立ちふさがることになる……。