北陸から中国へ、そして京ヘ
10代将軍・足利義材と同一人物。この項では、「流れ公方」と称された彼の後半生――明応の政変で奪われた将軍の地位を放浪の末に取り戻し、そして再び失って失意のうちに亡くなるまでを紹介する。
将軍の地位を失いながらもどうにか囚われの身から脱出した彼は北陸に奔った。
この地を拠点に、上洛と復権に向けた活動を開始するのである。彼は畠山氏との関係が深かったこともあり、能登守護・畠山義統(はたけやま よしむね)や加賀守護・富樫政親(とがし まさちか)といった北陸の諸将たちがこれに応じた。こうして上洛の準備を整えた義材は、1498年(明応7年)に越中を出発。越前の朝倉氏のもとへ赴いた。名前を義尹に改めたのは、この頃だとされる。
また、かつて義尹とともに戦った畠山政長の息子・尚順(ひさのぶ)が、共同戦線を張らないかと話を持ちかけてくる。憎き仇・細川政元を挟み撃ちにしようということだった。義尹はこれに乗り、翌年越前を発ち敦賀を経て近江の坂本に陣を構えた。
しかし政元が出陣させた大軍に敗北して河内に逃れ、その後周防の大内義興(おおうち よしおき)を頼って山口に下った。
義尹はここに8年間とどまり、西国の諸氏に対して上洛運動を行った。義興はそんな義尹に積極的に協力し、九州の諸大名に協力を呼びかけるなどの行動を起こしている。
内乱の隙を突き、返り咲く
そうこうするうちに、再び義尹に上洛のチャンスが巡ってきた。
きっかけとなったのは、細川家の内乱だ。義尹を将軍から追い落として幕府の実権を掌握した政元には、実子がいなかった。そこで、前関白である九条政基(くじょう まさもと)の子・澄之(すみゆき)を養子にとった。ところが、実際に家督を相続させる際、政元は「澄之は細川氏とは繋がりがない」として、新たに阿波の細川成之(ほそかわ しげゆき)の孫・六郎を養子に迎え、澄元(すみもと)と改名させて彼を跡継ぎにしたのである。
先述したように政元は奇行の多い人物だったが、さすがにこれはまずかった。こんなことをしたら澄之と澄元が友好的な関係になれるはずもないし、なにより細川家臣たちが2人の下について争い始めるに決まっている。
実際、細川氏を二分する内紛が勃発し、その過程で政元は家臣によって殺害されてしまった。
政元が死んだ結果、中央では再び義尹を擁立する気運が高まった。これこそが義尹にとって千載一遇の大チャンスである。義興の兵力を頼みに、上洛を開始する。
幕府はあわてて和睦を結ぼうとしたが、その役を任された細川高国(ほそかわ たかくに)が義尹に寝返ると、もう取れる手段はなくなってしまった。
こうして義澄を京都から追いやった義尹は、再び征夷大将軍の座に返り咲いた。一生のうちに二度も将軍に就任したのは、義尹が初めてである。
義尹は再就任にあたって後援者となった義興を管領代(かんれいだい)に、そして入京に際して大きな力となった高国を管領とし、新たな政治を始めた。
ちなみに戦国時代、軍勢を率いて上洛し、将軍を擁立することに成功したのは、このときの義興と、のちの織田信長のふたりきりだ。
結局は京から追われ……
しかし1509年(永正6年)、京都を追われた前将軍・義澄が、義尹を暗殺しようと刺客を送り込んできたのである。寝所を襲われたにもかかわらず、義尹は奮闘の末に4人の刺客を切り倒し、どうにか命を拾った。
暗殺計画が失敗に終わったため、義澄は次に細川氏の援助を得て京都に進撃した。
これを受けて、義尹は義興や高国らとともに一時的に丹波に逃れたが、義興と高国は義尹を高雄尾崎坊に逃がすとすぐに反撃に転じる。細川軍は船岡山に陣取り、そこで義興・高国軍を迎撃したが、兵の数で細川軍が劣勢だった。さらに義澄は途中で病死しており、戦いは細川氏の完敗に終わる。
こうして安泰かと思われた義尹の政権だったが、実は別の問題があった。
義興と高国の両名は、以前から義尹の将軍再就任に尽力した者として専横を極めていた。しかもこの船岡山の戦いでの功績により義興が従三位に叙せられると、その勢いは増した。これを不満に思った義尹は、隠退を表明して近江の甲賀に出奔した。
義興と高国があわてて義尹に誠意を示したため、一度は帰京する。この頃、名を義稙(よしたね)と改めた。だが義興が領国平定などの理由で山口に戻り、さらに義澄の側近であった細川澄元も没すると、高国の専横はいっそうひどくなってしまう。嫌気が差した義稙は再び出奔し、今度こそ将軍職を解任となった。
阿波にて没したのはその2年後――放浪の生涯を送った将軍の、無念の死であった。