細川政元によって擁立される
義澄は堀越公方・足利政知(あしかが まさとも)の子である。
政知は8代将軍・義政の弟で、兄の命を受けて関東公方になるべく関東地方へやってきたものの、動乱が続いていたため鎌倉に入れず、伊豆の堀越を拠点とした。それが堀越公方のゆえんで、つまり義澄は義政の甥にあたるわけだ。
そんな義澄は8歳のころ、伯父の義政に天龍寺香厳院(こうげんいん)への入室を勧められ、上洛している。義澄の父・政知が以前、香厳院の院主を務めていたためだ。父母と別れて京都を訪れた義澄は、剃髪して清晃(せいこう)と称した。
1489年(延徳元年)、9代将軍・義尚が死去すると、義政や管領の細川政元らが彼を擁立しようとする。「応仁の乱」で争った義政の弟・義視が子の義材を立てようとしたため、権力が義視の手に渡るのを危惧し、その対抗馬として目をつけたわけだ。
このときは結局、義政の妻・日野富子らの反対もあり、義材が将軍に就任することとなった。だが将軍家の家督問題は、その後も義材と政元の対立という形でくすぶり続け、やがて義材を擁立した富子も義視と反りが合わなくなり、政元に味方するようになった。この頃になると、再び清晃を将軍に擁立する動きが表立ってくる。
そして1493年(明応2年)、「明応の政変」が起きた。
義材を失脚させるためのクーデターである。政元は反旗を翻すと、すぐに清晃を自分の邸宅に入れて還俗させた。還俗した清晃は従五位下に叙せられ、名を義遐(よしとお)と改める。
政元はさらに義材から差し出させた将軍家に伝わる鎧と刀を与えて、新将軍として擁立する準備を進めていく。この後、再び改名し、今度は義高(よしたか)と名乗るようになっている。
傀儡とされ、怒りを爆発させる
義高への将軍宣下がなされたのは1年後のことだった。そして、元服式はそれよりさらに7ヶ月も先に行われる予定になっていた。これは政元が典礼を嫌う傾向にあったため、彼の家臣らが説得するのに時間がかかったのだという。
このように典礼を疎んずることをはじめ、政元はたびたび不遜な態度に出ることがあった。加えて、政元は奇妙な言動をとることも多く、修験道という宗教に凝り、魔法を使うだの空中に立つだのといわれていた。ある種の奇人だったのである。
1502年(文亀2年)には義高は参議、従四位下、左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)となり、名を義澄(よしずみ)と改める。
しかし、政元の奇怪な振る舞いも影響し、ふたりの間に不和が生ずる。義澄は将軍に就任したといっても実質的には政元の傀儡に過ぎず、あくまで形式上の実務をこなすだけであった。このことも義澄の不満の種となり、両者の溝を深める原因になった。
実際に、政元が義澄のことを傀儡としか思っていなかったことが、義澄の左近衛中将任官の際の意見からも窺える。政元は義澄の左近衛中将任官に反対し、「天下に命令するのには将軍の名前さえあれば充分。左近衛中将になる必要はない」といったことを述べているのである。
政元のこのような態度に、義澄はついに怒りを爆発させ、政元を窘める五ヶ条を突きつけた。そして岩倉金竜寺に隠居するという方法で、政元への抵抗を示したのだった。
これにはさすがの政元も、慌てて金竜寺に赴いたものの、義澄は取り合おうとしない。その2日後に、慰めと帰京を勧める天皇からの勅書が送られてきたため、京都には戻った。
だが、政元は義澄に突きつけられた五ヶ条を結局無視し、2人の仲も修復することはなかった。
戻ってきた義材に京を追われる
細川氏の内紛によって政元が殺害されたのは1507年(永正4年)のことである。
これで政元の専横も終わったと思いきや、義澄には別の強大な敵が迫りつつあった。政元らの起こしたクーデターによって失脚させられていた前将軍・義材である。
義材は名を義尹(よしただ)と改め、各地を渡り歩きながら復権の機会を狙っていた(詳細は次項に譲る)。義澄は、政元の後を継いで管領となった細川澄元(ほそかわ すみもと)に義尹との和睦を勧められたが、これを拒否。将軍の権威の低下を危惧していたようだ。
しかし、幕府重臣たちの判断は違った。義尹の勢力に抗いきれないと判断し、義尹を援助する大内義興(おおうち よしおき)との話し合いを細川氏に命じたのである。ところが、これを命じられた細川高国(ほそかわ たかくに)が裏切って義尹と手を結び、軍勢を率いて京都に押し寄せる。
結果、義澄やその近臣らは京都から脱出せざるを得なくなる。将軍職も解かれることとなり、義澄は近江甲賀に逃れていった。
その後、細川氏や北九州の大友氏の力を借りて京都奪回を図ったものの、結局果たせないまま近江国の岳山で病死してしまう。