平穏な幼少期から一転、将軍に
義勝(よしかつ)は義教と日野重子(ひの しげこ)の子として生まれた。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。
日野家といえば先にも紹介したとおり、3代将軍の義満以来、将軍の正室を送り出してきた家である。しかし義教は三条尹子(さんじょう ただこ)を正室とし、重子は側室に置いていた。日野家の権力が増大することを憂慮していたのだろう。
さらに、重子の兄・日野義資(ひの よしすけ)は義教の癇に障って蟄居を命じられていた。重子が義勝を産んだ時、祝意を述べるために諸将らが義資の家を訪れたところ、義教はその者たちを全員処罰してしまったという。その数ヶ月後には、義資自身も義教の刺客によって殺害されてしまう。
このような背景があり、義勝は尹子の猶子として育てられた。実の母の実家と父の確執はありつつも、父の義教にも深い愛情を注がれ、平穏な幼少期を過ごしていた義勝。しかし、「嘉吉の乱」によって父が殺害されてしまったことから、彼の運命は激変する。
嘉吉の乱が起こった直後、養育係である伊勢貞国(いせ さだくに)の兄の家にいた義勝は、そこで厳しい警備態勢の下に置かれていた。事件から2日経ってから室町殿に移され、義勝が次期将軍となることが決定される。
土一揆に苦しめられた幕府
彼が後花園天皇から「義勝」の名を賜り改名した時には、嘉吉の乱から2ヶ月ほど経過していた。将軍宣下を受けたのはそれからさらに数ヶ月後、義勝が9歳になった1442年(嘉吉2年)のことである。その間に、義教暗殺の首謀者である赤松満祐は討伐された。
しかし、京都近辺では嘉吉の乱に乗じる形で徳政(借金の取り消し)を求めた土一揆(つちいっき)が勃発した。地侍や馬借(ばしゃく)たちが蜂起し、大軍に膨れ上がった一揆勢は、京都の出入口を塞いで外部との連絡を断ち、酒屋や土倉(当時の質屋・金融業者)を襲撃。これに煽られた一般市民たちも放火を行い、大規模な騒動へと発展した。
鎮圧を求められた管領の細川持之(ほそかわ もちゆき)は、幕府の中心人物らと話し合い、徳政は避けられないだろうという結論に達する。一揆勢の要求を受け入れ、徳政令を発布することを宣言した。
これに対し、一揆勢はのちのちに公家や武家から受ける報復を恐れたのか、自分たちだけではなく公家や武家も同じように徳政の対象とするように要求してきた。仕方なしにこの要求を受け入れた幕府は、天下一同の徳政令を出す。
こうしてようやく事態は収束したが、一揆の圧力に幕府が負けたこの事件は、その弱体化を露呈することになった。さらに幕府は土倉から得られる収入に頼り切っていたために、財政難を強いられることにもなったのだった。
わずか8ヶ月で……
このような情勢の中で将軍に就任した義勝だったが、その補佐をしていた細川持之が嘉吉の乱や嘉吉の土一揆などの取りまとめで心労が溜まったのか病に陥り、管領職から退いてしまう。
代わりに管領を務めることになった畠山持国(はたけやま もちくに)が義勝の補佐を引き継ぐことになったが、ここでまたしても事件が起きる。加賀守護代である山川八郎が、持国を襲撃すると宣言したのだ。
ことの始まりは、義勝の父である義教が、加賀守護を務める富樫教家(とがし のりいえ)から守護職を剥奪したことだった。守護職はそのまま弟の泰高(やすたか)に譲られたが、義教の死後に教家と泰高が内乱を始めてしまう。山川八郎は泰高派だったものの、戦いに破れてしまう。そこで、教家の息子である亀童丸を援助していた畠山持国に狙いを定めたのである。
この騒動に際して、義勝の母である日野重子が仲裁に乗り出して、泰高を援助する代わりに、八郎とその父が切腹する、ということでようやく事態は収束した。このように立て続けに起こる騒動に、乱世の兆しが見え始めてきていた。
また、まだ幼い義勝の就任そのものが、幕府の権威低下の象徴である、という見方もある。
そんな中、義勝が赤痢にかかった。
食事もとれなくなった義勝に回復の見込みはなく、発症から数日後に息を引きとってしまう。享年10歳、在位期間はわずか8ヶ月であった。これは義教によって征伐された足利持氏や、義教の暗殺を成し遂げたものの間もなくして自害に追いやられた赤松満祐らの怨霊の仕業だという噂が流れた。同時に、「本人には何の罪もないのに、父親のせいでこんなことになってかわいそうだ」と義勝を憐れむ声もある。
また、義勝の死因として「出雲から送られてきた駿馬を気に入り、毎日のようにこの馬に乗っていたが、誤って落馬してしまい命を落とした」というものもあるのだが、こちらの話は信憑性が薄い。