政治への情熱はすぐ失われ……
6代将軍・足利義教と日野重子の子。兄・足利義勝の夭折により、幼くして家督を継いだ。
義勝が死去した時、義政(当時の名は義成)はまだ8歳だったため、しばらくは将軍不在の期間が続き、14歳になったころにようやく将軍宣下が行われた。
義政は、最初のうちは政務に積極的にかかわろうとしていたらしい。
当時幕府の主導権を握っていたのは畠山持国や細川勝元、山名持豊といった重臣たちや母・重子であった。結果、義政の命令はしばしば反対に遭い、また義政の許可を得ないまま勝手に守護職の任命を行うなどとトラブルが多く、結果として義政は政治に対する意欲を失っていった。
このころの義政の側室に、今参局(いままいりのつぼね)という女性がいる。
彼女は義政が赤ん坊のころから世話をしてきた女性で、義政より10歳も年上だ。義政はそんな彼女を寵愛し、間に女子も儲けたという。ただ、気が強く頭も良かった今参局は、単に側室の枠に留まっていただけでなく、政治の面でも強い権力を握っていたのである。
1451年(宝徳3年)には、義政が尾張の守護代を織田敏広(おだ としひろ)から兄の郷広(さとひろ)に交代させようとして、それを持国や母の日野重子らに反対されるという出来事があった。しかしこの時、今参局だけは義政の意見を推したため、義政は他の意見を退けようとしたのだった。
このことから今参局は、政治干渉を理由に重子らによって一時的に追放されるものの、義政の寵愛を得ていたためにすぐに戻ってきたという。
その後も今参局は義政の傍で権力を握り続け、義政が20歳になるころには有馬持家(ありま もちいえ)、烏丸資任(からすまる すけとう)という2人の家臣とともに「三魔」と呼ばれ(全員の名前に「ま」が入っていることが由来)、「政は三魔より出づ」などと言われるようになっていた。将軍である義政ではなく、三魔によって政治が執り行われているということだ。
そんな中で義政は結婚し、日野富子(ひの とみこ)を妻に迎えた。
正室である富子と、側室でありながら巨大な権力を手にする今参局は当然のごとく敵対し、やがて富子は自分の子が生後間もなく死んでしまったのを今参局が呪ったせいだと義政に訴えることで、今参局を処罰させることに成功する。
今参局がいなくなった後も、義政は政務に復帰しなかった。花見や紅葉見物、酒宴などを頻繁に行い、遊びふけるようになっていた。その費用は相当なもので、特に1465年(寛正6年)に開かれた大原野の花見は、衣服・調度などが前代未間といわれるほどの華美さだったという。
さらに義政は建築や造園にひときわ熱を注いでおり、室町殿の復旧も行って邸内に新殿や泉を造った。母・日野重子のために新しい邸宅も造営し、設計から工事まで全て義政自身が中心となって進行した。
ちょうどこの時、世間は酷い大飢饉に陥っていた。
寛正年間は水害や干害、地震などが頻発し、異常気象が続く中で民衆は苦しんでいたのである。全国的に広まった大飢饉はもちろん京都も例外ではなく、台風の氾濫によって京都への食糧の搬入が困難になったりもしたため、多くの餓死者が出た。死体は川べりや空き地の草むらに葬られたものの、その死体で川の水がふさがるほどだったという。
このような惨状を物ともせず、義政は豪奢な生活にふけっていたのである。これを見とがめた後花園天皇が義政を非難する文書を送ったものの、一時的に邸内の新殿の造営を中止しただけで、しばらくすると工事を再開した。
応仁の乱の引き金を引く
結局のところ、義政の頭にあったのは「政治から離れて趣味に没頭したい」というだけだったのだろう。
そこで「早く引退したい」と考えた彼は、弟の浄土寺義尋(じょうどじ ぎじん)を還俗させて自分の養子にし、後継者とした。義政はそのときすでに29歳になっていたが、いまだに後を継ぐべき男子がいなかった。
義尋は最初、義政の申し出を断った。けれど義政が「今度男子が生まれることがあっても、将軍職は必ず義尋に譲る」と誓書を渡したので、後継者となることを承知したのだという。こうして義尋は還俗し、名を義視(よしみ)と改めた。
しかし、なんとその翌年になって富子が男子を出産する。富子は当然、自らの産んだ子を将軍にしたいと望み、義視と対立するようになった。そしてその後援者として、守護大名の中でも有数の実力者である山名持豊(やまな もちとよ)を頼ったのである。これに対し、義視は同じく有力者の細川勝元(ほそかわ かつもと)を後援者とした。
持豊と勝元は畠山持国が亡くなって以来、幕府の舵取りをめぐって激しく争っていた。しかも、管領の畠山家と斯波家が家督争いを繰り広げていて、それぞれが持豊・勝元に接近していた。
そこに将軍家の家督争いまで結びついたのだから、ただで済むはずがない――そうして勃発したのが、1467年(応仁元年)からの「応仁の乱」であった。京都を中心として全国にも波及したこの大規模な内乱は、結局1477年(文明9年)に和睦が結ばれるまで、11年にわたって続いたのである。
この乱の中にあっても、義政はあくまで傍観者であろうとしていた。いつもと変わらず酒宴を開き、騒乱を避けるように過ごしていたという。
しかし客観的に見ると、義政が手を出したところで事態を収拾するのは難しかったろう。
地位を息子に譲り、趣味へ逃避する
まだ動乱が終結していなかった1473年(文明5年)、義政は実子・義尚に将軍職を譲り渡した。
一度は義視に「将軍にする」という誓書まで渡したものの、やはり富子と同じく自分の子が可愛かったこと、そして義視の強硬な態度に嫌気が差したことが原因であったという。
政治の第一線から離れた義政は、京都の東山に山荘を築いてここに移り住んだ。
義政は東山殿(ひがしやまどの)と名付けられたこの山荘で、かねてからの望みであった風流生活を送ることになる。義政が移り住んでからも造営が続けられた東山殿は、庭園を含め西芳寺を模して造られたとされている。
その中でも特に有名なのが、今にいう銀閣寺である。これは義政が観音堂として建設したもので、3代将軍・足利義満の金閣寺を真似て銀箔をはるという計画が立てられていたが、その前に義政が死去してしまうため、それはかなわなかった。
しかし彼の活動は、単なる趣味として終わっただけでない。この東山殿を中心として栄えた文化が「東山文化」として歴史に名を残したのだ。
優れた才能や技術を持つ者を傍に置き、さらにそこに日明の貿易で工芸品などが輸入されたため、それらの多様な芸術や文化が融合し、新しい文化が生まれたのである。
このようにして趣味に没頭する日々を送っていた義政だったが、東山殿に移り住んで間もなくした頃から、彼の体は不調を訴えるようになっていたようだ。
1489年(延徳元年)には将軍職を譲った息子・義尚が死去し、彼の後継者がいなかったために義政が再び政務を担当することになったが、このときにはもう、心身ともに政治に耐えられる状態ではなかったのである。
結局、その年のうちに義政は言葉も満足に喋られなくなり、その翌月には危篤状態に陥ってしまう。
そして2日後、1490年(延徳2年)の正月7日に義政は息を引き取った。55歳だった。