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【歴代征夷大将軍総覧】成良親王――天皇になるかもしれなかった将軍 1326年~1344年?

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幼い親王が征夷大将軍になった理由

成良親王(なりよししんのう)は後醍醐天皇の第6皇子で、母は阿野廉子(あの れんし)である。
1333年(元弘3年)、まだ7歳の成良親王は、鎌倉に派遣され、関東8ヶ国と伊豆・甲斐を治めることになった。もちろん実務が行えるはずもないから、足利尊氏の弟・足利直義が補佐としてつくことになった。

その2年後、鎌倉が「中先代の乱」で北条時行(ほうじょう ときゆき)によって攻め落とされると、直義に連れられて脱出。そのまま京へ送り返された。
そして、帰還した京都で彼に与えられたのが、兄・護良親王の失脚以来空いていた征夷大将軍の地位だったのである。
このとき、尊氏が「自分を征夷大将軍に任じて、中先代の乱の鎮圧に派遣してほしい」と要請していたので、成良親王の人事はそのまま尊氏の要求を拒否することに他ならなかった。

この時代、征夷大将軍は古代のような「討伐軍の総指揮官」にとどまらず、「武士の頂点であり幕府の長」だった。
そのような地位を名門の武士である尊氏に与えれば、せっかく滅ぼした武士政権が新たな形で復活するのは理の当然である。天皇としてはこの要求を呑むことはどうしてもできなかった、というわけだ。

その一方で、「天皇はどうせ将来的に尊氏が将軍になるのを止めることはできないと見て、むしろ自分から与えてコントロールしようとしたのだが、護良親王に代表されるような反尊氏派の声によりかなわなかったのだろう」あるいは「成良親王を象徴としての将軍に、それを補佐する尊氏が実質的な指揮官として討伐軍を率いる形にしたかったのではないか」といった見方もある。

そのような思惑が天皇にあったにせよなかったにせよ、尊氏にその意図は通じなかった。
もしくは、天皇と尊氏のそれぞれを取り巻く事情が彼らの融和を認めなかった。中先代の乱を鎮圧した尊氏は鎌倉に居座り、新政府に反旗を翻すことになるのだが、これについてはのちの尊氏の項で詳述することにしたい。

将軍の後に天皇!?

話を成良親王に戻そう。
この人が次に歴史上に登場するのは1336年(建武3年)、天皇方の軍勢を打ち破って京に入った尊氏が、持明院統から光明天皇を即位させてから数ヶ月後のことである。なんと、光明天皇の東宮(後継者)として、成良親王の名が挙がったのだ。これは比叡山に立てこもって頑強に抵抗を続けていた後醍醐天皇がとりあえずの和解をし、山を降りて幽閉されてまもなくのことであった。

尊氏としては、かつて鎌倉幕府が両統に提案した「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を再現するという譲歩によって争いを終えたかったのだろう。
実際のところ尊氏は最終的に後醍醐天皇と戦いはしたが、基本的には彼に対して敬意を払い続けており、なるべく敵にまわそうとしなかった節も見える。幕府を倒した天皇の情熱や才覚を高く評価していた、ということだろうか。
もし、この関係がうまくいけば、成良親王は将軍と天皇をふたつながらに経験するという日本史上に例を見ない存在になれたかもしれない。

しかし、そうはならなかった。
後醍醐天皇が京を脱出して徹底抗戦の構えを見せ、南北朝動乱の時代が始まってしまったからである。そうでなくても、この時期に両陣営の和解が完全な形で成立し得たとは思いがたいので、成良親王が天皇になるのは難しかっただろうが……。

成良親王はいつ亡くなった?

そんな成良親王がいつ亡くなったか、については実のところはっきりしない。
『太平記』に従えば彼が亡くなったのは1337年(延元2年)のこと。この時期、兄の恒良親王(つねよししんのう)とともに京で捕らえられていて、兄が毒殺されて20日あまり経った後、彼もまた毒殺されたのだ、という。

恒良親王は新田義貞とともに北陸の金ヶ崎城にいて北朝方の軍勢と戦って敗れ、そこから脱出する際に捕らえられた(2人の兄弟である尊良親王は討ち死にしている)ため、成良親王も同じように北陸で捕らえられたのか、それとも別の形で捕縛されたのか、はわからない。
そもそも、成良親王が死んだのは1344年(康永3年)だという説もあって、はっきりしないのが実際のところである。

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