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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府9代・足利義尚――遠征の末に倒れた将軍 1465年~1489年

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幼くして将軍職をめぐる争いに巻き込まれる

8代将軍・足利義政と日野富子の間に生まれた子であり、義政の項で紹介したように彼の誕生こそが「応仁の乱」の引き金となった。
生まれてから1ヶ月が経ったころ、義尚は重臣の伊勢貞親(いせ さだちか)の家に移された。これは将軍家の慣例であり、将軍となる子は生まれてすぐに伊勢氏に引き取られ、養育されることになっていたからだ。

義尚の養育係となった貞親は、彼を次期将軍とするため義視を殺そうとし、そのために義政をそそのかした。しかしこの謀略は露見し、管領の細川勝元(ほそかわ かつもと)らが貞親とその協力者の討伐を命じたので、貞親は近江へ逃れた。
貞親の息子の貞宗(さだむね)が、義尚の養育係を引き継ぐことになる。貞宗は父に比べて中立派で、そのため義尚の後見人として強い発言力を発揮し、また義尚の将軍擁立に積極的に動いたのは母の富子、そしてその兄の日野勝光(ひの かつみつ)だった。
衰退していた日野家の復興を成功させたふたりとしては、「将軍の母」になることでさらなる勢力を獲得したかったのだろう。富子は兄の勧めもあり、勝元を味方につけた義視に対抗して、山名持豊を味方につけた。

このような将軍家の内紛に幕閣の権力争い、有力守護大名の後継者争いが絡む形で勃発したのが応仁の乱であったのは、すでに紹介したとおり。10年以上にわたったこの内乱も、1473年(文明5)に義尚が元服して将軍となり、また同じ年に両軍の総指揮官である勝元、持豊のふたりが相次いで亡くなったことから、戦いは下火となり、数年後にようやく終結した、という次第である。

応仁の乱が幕府崩壊の始まり?

応仁の乱以前、室町幕府の治世は全体的には安定していた、といっていい。本書でここまで紹介してきたような内乱や小競り合いはしばしば見られたものの、それが幕府のシステムそのものを揺るがすようなことはなかった。

守護大名たちは任地ではなく京にいて中央の政治に参加し、統治を行うのはその部下である守護代(守護代も京にいる場合はさらにその代理である又代(まただい))の役目だった。それが室町幕府の地方自治システムだったのである。
だが、応仁の乱後は地方で小競り合いが続くようになってしまった。また、守護代、又代、国人(地付きの小規模武士)が地元で力を持つようになった。後の戦国大名たちの多くは、そのような身分から下剋上によって成り上がった者たちである。このような状況の変化に対応するため、守護大名たちは京を離れて地元に戻り、自らの勢力を守る戦いをしなければならなかった。

将軍の権威を掲げつつ、在京守護大名の合議によって政治を行う室町幕府の体制は、この内乱を経て崩れていく――応仁の乱が室町時代と戦国時代の区切り、といわれていたゆえんである。
近年は「応仁の乱後も将軍権威は健在だった」ということからこの説は下火になっているが、しかしこの事件が室町幕府に強烈な楔を打ち込んで崩壊を早めた、ということは間違いないだろう。そのきっかけこそが義尚だったのだ。もちろん、子供だった彼の責任ではないのだが。

やがて両親と不仲に

将軍にはなったが、義尚はまだ9歳。政務は引き続き義政が行うことになる。
実際に義尚が政治を行うようになったのは、1479年(文明11年)からとされる。義尚は父とは反対に政務に意欲的で、一条兼良(いちじょう かねよし)という学者に政道の教えを自ら請うている。これに応えて、兼良は政道指南書となる『樵談治要(しょうだんちよう)』や、『文明一統記(ぶんめいいっとうき)』を執筆し、義尚に贈った。

しかしながら、義政は東山殿に隠居したのちも強い支持者を有していたので、東山殿は東府、室町殿は西府と呼ばれ、2つの幕府が存在しているような状態だった。さらにそれだけではとどまらず、義政と義尚にそれぞれついた奉行衆が対立するようになったのである。このため幕政はなかなか義尚の思うようには進まなかった。

これに加えて、父・義政との間にも亀裂が入る。貿易や社寺の管理などの権限を義政が手放そうとしなかったために、義尚が新しい政治を行おうとしてもできなかったからだという。またその他にも、義尚と義政が同じ女性を好きになって不仲になったという話まであり、苦笑するしかない。
しかも義尚は父だけでなく、母・富子との仲も次第に悪くなっていった。富子は義尚を溺愛しており、独立心の芽生え始めていた彼にとっては、その干渉がうっとうしく思えていたのではないかと考えられている。義尚は富子を避けるように、養育係だった伊勢貞親の子・貞宗の家に移り住み、義尚との不和によって富子の権勢は衰えていくことになった。

思うように政務が進まない中で、義尚も父と同じように酒を飲んだり、趣味の世界に没頭したり、と悪癖を見せるようになっていったらしい。
ただ、その文化的な才能は優れたもので、膨大な数の和歌を詠み、『常徳院集』という歌集を残している。また、絵画や書にも通じており、「後土御門天皇が義尚に絵画を提出するようご所望された」という記録が『御湯殿上日記』に残されている。

遠征の末、病に倒れる

そんな文人趣味の生活を送っていた義尚だが、父と違って政治への情熱そのものを失ったわけではない。彼が近江に出征することになったのは、1487年(長享元年)のことだ。
近江守護の六角高頼(ろっかく たかより)が、近江国内の将軍家やその家臣の所領、寺社本所領などを押領したことが発覚したため、諸将を集めてこれの征伐に向かったのである。この出陣は高頼征伐を目的としただけでなく、幕府の威厳を回復するという意味も込められていた。

近江の坂本に陣取った義尚は、高頼のこもる観音寺城に一斉攻撃を加えた。この攻撃に、高頼が観音寺城を放棄して甲賀に逃げ込むと、義尚は続いて自陣を鈎(まがり)に移動。しかし、甲賀の山間に逃げ込んだ六角勢を掃討することはなかなか難しく、しばらくすると幕府軍は一旦撤収することになる。

しかし、この隙を狙って六角勢が一気に襲撃を仕掛けてきたので、形勢は逆転。
六角勢のこのようなゲリラ戦法により、戦いは長期になることが予想された。こうして釣に長い間滞陣することになった義尚だったが、その間に幕府の奉公人による内紛や、一向一揆の平定のために戦線を離脱する者が現れるなど、さまざまなハプニングが重なって戦いは思うように進まなかった。

義尚は鈎に滞陣する間も、一般の政務に加えて和歌会や連歌会などを陣中で開催していたが、長期にわたる戦いに疲れが出たのか、次第に寝込むことが多くなっていった。何度か病気になっては回復を繰り返したものの、1488年(長享2年)にはついに重病を患い、陣中に医師を呼ばなければならないほどになった。

翌年、義尚は危篤状態に陥る。母の富子が鈎まで駆けつけたものの、回復することなく25歳の若さで息を引き取った。
高頼征伐のために出陣してから1年半の月日が流れていた。

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