大大名不在の大和国
意外かもしれないが、江戸三百藩と呼ばれる大小諸藩の多くは祖を他国に持つ。先祖代々の所領を守り続けてきた家は少ない。
安土桃山時代(織豊時代)を通して織田・豊臣・徳川の家臣団が全国に配され、その末裔が大名として残った例が多いからだ。そのほかの戦国時代を生き残った大名たちも、なんらかの形で転封されたケースが多々見られる。そのなかで、父祖の地を守り続けた数少ない例のひとつが大和柳生藩だ。
柳生氏といえば剣術、柳生新陰流と考える人も多いだろうが、柳生の歴史を追ってもその名はなかなか出てこない。
まずは大和国(奈良県)の山奥にひっそりと暮らす小国人の歴史を追うのに少々付き合っていただきたい。
柳生氏の血筋は道真を輩出した菅原氏に遡るといい、大和国添上郡柳生(奈良市)は小柳生荘の荘官、大膳永家を祖とする。以後、柳生氏の活躍はあまり目立たないが、戦国時代初期に現れた柳生家厳という人は一廉の武将であったようだ。
この時に家厳が仕えていた木沢長政は、室町幕府重臣畠山氏の家臣ながら、細川晴元にも随従する梟雄。そのもとで各地を転戦している。というのも、戦国時代の畿内は動乱が打ち続いていたからだ。
そもそも、将軍の後継者争いと各有力守護家の内紛が連鎖して大内乱となった応仁・文明の乱(1467―77)が約10年続き、それが終わったと思ったら今度は時の将軍・足利義材(義稙)が管領(将軍を補佐し政務を司る)を務めた細川政元によって追放される「明応の政変」が1493年(明応2年)に起きた。
このふたつの事件によって室町幕府は完全に権威を失い、戦国時代が始まったとされる。
やがて1508年(永正5年)、中国地方の名門大名・大内義興が兵を率いて上洛したことから一度は落ち着くも、同15年に義興が領地に戻りふたたび不安定化。
畿内きっての有力者・細川家は永正4年の細川政元暗殺後、同族の細川高国と細川晴元らが、骨肉の争いを演じていた。
最終的には晴元が勝利するが、その晴元の天下も長く続かない。本来は細川氏の家臣筋にあたる三好長慶が四国より上洛し、晴元を脅かす……。
このように目まぐるしく変わる情勢のなかで、柳生氏は危機に陥る。
盟主である木沢長政が晴元との不仲から追い詰められ、1542年(天文11年)に討ち死にしてしまったのである。
柳生氏は単独でその領地を守れるような強力な国人ではない。同じく大和の国人で、その頃めきめきと頭角を現していた筒井氏に攻め込まれ、小柳生にあった城を失っている。天文13年のことだ。
ここで大和国の特殊な事情について紹介しておきたい。
室町時代において、有力武家は諸国の守護職を獲得してその地域の領主となったが、大和国には武家の守護が置かれていなかった。ここには古来より法相宗の大本山たる興福寺(奈良市)があり、宗教的権威のみならず武力も有し、幕府も大和国に守護を配することができなかったからだ。
この興福寺の支配が戦乱の世で揺らぎ、大和国内の興福寺衆徒やそのほかの国人が割拠を始めた。そうして現れたのが衆徒出身の大名たる筒井氏だった、というわけだ。
以後しばらくの間、柳生氏は筒井氏に臣従することで領地を守っていたのだが、その間も畿内の情勢は動いていく。晴元は三好長慶に倒され、その長慶の家臣の松永久秀が1560年(永禄3年)頃より大和侵略を開始した。
筒井氏への恨みもあったのか、家厳はすみやかに久秀につき、息子の宗厳(1529―1606)とともに松永軍の一員として各地で戦っている。
とはいえ、松永・筒井の両家が常に争っていたわけではない。とくに久秀は、主君の長慶が死んだ後は将軍や管領を傀儡とした三好政権の権力を継承するべくいそしんだから、いつも大和に目を向けているわけにもいかなかっただろう。
松永と筒井の勢力が接する境界で、柳生氏は主に松永側に付きつつも、かなり危ういかじ取りを迫られることになったはずだ。
柳生谷への隠棲と再起
ここまで見ていただいてわかったように、京にほど近い大和国に所領を持つ柳生氏の命運は、常に中央情勢の変化に左右される。1568年(永禄11年)の時もそうだった。
この年、尾張の織田信長が上洛を果たし、足利義昭を将軍の座につける。松永久秀は真っ先にその軍門に下り、続いて筒井氏も織田傘下に入った。自然、柳生氏も織田支配下ということになるわけで、松永・筒井の争いに巻き込まれなくなった柳生荘にはひと時の平和が訪れたわけだ。
柳生氏など小国人にすぎないのだが、信長にはそれなりに評価されていたようだ。
1570年(元亀元年)付の信長から宗厳宛の手紙が残されているほか、年代は不明だが、信長と柴田勝家・滝川一益・佐久間信盛といったそうそうたる織田家の重鎮が大和国にやってきた際、その案内役を務めたという逸話が『寛政重修諸家譜』に記されている。
しかし、戦国乱世の事情はすぐに変わるものだ。
翌元亀2年、松永久秀は仇敵・筒井氏を攻め、この頃以降は信長に反する動きを見せていく。柳生氏は以前からの付き合いの故か、それとも筒井氏への旧怨を忘れられなかったためか、久秀に味方して戦に敗れたばかりか、宗厳の嫡男で将来の後継ぎとなるはずだった厳勝が重傷を負い、一生まともに歩くことができない身となってしまう。
しかも柳生氏を反信長に導いた久秀はあっさりと1574年(天正2年)に降伏し、ふたたび信長に仕えるのだから、柳生氏はただただ振り回されただけだ。家厳や宗厳としては悔やんでも悔やみきれぬ裏切りとなってしまった。
なお、久秀は天正5年にふたたび信長を裏切り、今度は城を枕に討ち死にを遂げている。
久秀が死んだのと同じ年、家厳と宗厳の親子は揃って故郷である小柳生荘に隠棲し、武将としての活動をやめてしまう。
そこにどんな意図があったのか、はっきりとはわからない。『寛政重修諸家譜』の宗厳の項には「やまいにかかり」とあるが、どこまで信じていいものかはわからない。
ただ、ひとつ手掛かりになるかもしれない事実として、宗厳の剣術のことがある。
宗厳は若い頃から剣術に熱心であったが、永禄6年より「剣聖」と名高き上泉信綱に新陰(影)流を学んでいた。宗厳がこの技芸を工夫し、また後世に伝えようとしたのがいわゆる「柳生新陰流」の始まりである。
度重なる動乱と、強者の都合によって翻弄される武将の宿命を憂えた宗厳が、剣術に専心するために隠棲を選んだ、というのはそれなりに筋が通った説明であろう。
とはいえ、先祖代々の土地があり、そこに住まう一族や家来がいる以上、世のことにまったく無関係で仙人のように暮らしていけたはずがない。
この時期の大和国は織田政権において筒井氏の、その後の豊臣政権においては豊臣秀長の所領となっていた。柳生氏もその支配下に置かれていたはずだが、それがどのような形であったのかははっきりとした史料に残っていない。
ただ、まったく武士をやめてしまった、というわけではなさそうだ。
1594年(文禄3年)、いわゆる太閤検地において隠田(税を納めず秘匿した田畑)を指摘された柳生氏は、先祖代々の所領2千石を取り上げられてしまっているからである。これは柳生氏に恨みを持つものによる密告であったという。
この頃には家厳はとうに亡くなっている。だから、所領を失って困窮する一族を救うために運動するのは宗厳の役目だった。
その一部であったのだろうか。同じ年、宗厳は京郊外の聚楽紫竹村で徳川家康に会っている。
ここで彼がアピールしたのは、隠棲以来磨き続けてきた柳生新陰流の技であった。その見事さにすっかり感心した家康は宗厳に200石の知行を与えている。
これにより柳生氏はどうにかその命脈をつなぐことができたわけだ。
柳生宗矩の活躍
徳川から知行をもらうということは、徳川の家臣となった、ということだ。
宗厳はもう老齢であったし、長男の厳勝は不具の身であったから、代わって5男の宗矩(1571―1646)が家康に仕えることになる。以後、柳生氏を動かしていくのはこの宗矩だった。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に際して、宗矩は会津(福島県)の上杉景勝攻めから引き返して西に向かう家康に先行し大和へ戻り、「同じく徳川に味方する筒井氏とともに大和の国人たちを取りまとめ、石田方への妨害工作をするように」という家康からの命令があったと宗厳に伝えた。
その後、関ヶ原の戦い直前、自陣にたどり着いて諸大名に迎えられても敵陣をじっと睨む家康のもとに現れた宗矩が「此度御意めでたし、いづれもこれにさぶらう」と申し上げたところ、家康は「はじめて御心づかれ」たという(「東照宮御実紀附録」)。ここから、宗矩に与えられた役目はそれなりに大きく、またそれをきちんと果たした、といっていいだろう。
関ヶ原の戦いが終わって徳川が天下人となると、柳生氏には2千石の所領が与えられた。これはかつて密告によって取り上げられた旧領である。さらに翌年には1千石が与えられた。
以後、宗矩の活躍は目覚ましい。2代将軍・徳川秀忠の兵法指南役を務め、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」においては秀忠の本陣を守って7人もの敵を瞬くうちに斬り捨てたというから、父以来の剣術の腕も大いに評価されていたようだ。
しかし、宗矩の真価は将軍側近、相談役としてのそれにあった。
三代将軍の家光は彼にとっても兵法指南役であった宗矩に大いに敬意を示し、重用したのである。総目付(のちの大目付)として諸武家の監察・監視という困難な任務を与えられた宗矩は、この期待に見事に応えた。
結果、柳生氏は1万2500石の大名になっている。
後世、「宗矩の嫡男、三厳こと柳生十兵衛は公儀隠密であった」「柳生新陰流には裏柳生という密偵集団がいた」などといった話がまことしやかに語られるが、いずれも創作である。しかし、このような物語が生まれるほど、宗矩の働きは見事だった、ということだ。
一つには、柳生新陰流が全国の諸大名に受け入れられ、宗矩の弟子があちこちにいるどころか、諸大名自身が宗矩の弟子になるような状況のなかで、情報収集が非常にしやすかった、というのも一因としてあるだろう。
その後の柳生氏
柳生氏には「剣術で立身出世した一族」というイメージが強い。しかし、ここまで見てきたとおり、徳川幕府が柳生氏を重用し、大名に引き上げたのはその剣術が理由ではなかった。
弱小国人出身ながらも、旗本として加増を受けたのは関ヶ原の戦いでの働きによるものだったし、その後の立身出世はひとえに宗矩の活躍によるものだ。
そのことを示すように、家光は病床の宗矩を将軍自ら見舞い、「なにか願いがあれば申すように」と異例の厚遇を示している(「玉栄拾遺」)が、宗矩が亡くなるとその所領を嫡男の三厳に8300石、四男の宗冬に4千石、末子の列堂がのちに入る柳生荘の芳徳膳寺の寺社領に200石という形で分割した。
こうして柳生氏は大名から旗本へ転落したのである。
その後、三厳が急死しその遺領を継いだ宗冬の頃に大名への復帰は果たされたものの、その後の約200年に目立った働きはない。
将軍の兵法指南役を務めたのは宗冬の子の宗在までで、以後この役が柳生氏に回ってくることはなかった。たまに将軍の兵法上覧があったくらいである。以後、日立った働きもないままに1万石の小大名として幕末を迎え、明治の廃藩置県となる。
結局のところ、柳生氏を立身出世させたのは柳生宗矩という一人の男の突然変異的活躍だったのであろう。