水陸の要衝・知多半島
水野氏は尾張国(愛知県)の南に突き出る知多半島北部を中心に勢力を持った国衆である。源頼朝に仕えた2代重清が、春日井郡山田庄水野(愛知県瀬戸市)に移ったことがその名の由来であるという。
戦国乱世においては三河国(愛知県)西部の刈谷(同刈谷市)に進出してここを拠点とする一方、知多半島の南部にも進出、勢力拡大に努めている。この時期の知多半島には支配者というべき勢力がおらず、中小勢力による群雄割拠状態になっていた。
といっても、知多半島が価値のない場所だった、というわけではない。むしろ逆だ。知多半島は尾張。三河をつなぐ東海道の途上であるとともに、その陸路と伊勢湾の海路を結ぶ場所でもあった。
この海路は伊勢(三重県)から紀伊半島をまわって畿内べ至る重要なものであるため、自然と知多も栄え、また商船を警護するための水軍も発達することとなる。
その知多半島が短期間とはいえ巨大勢力による支配にさらされなかったのには、理由があった。
本来、尾張の守護は名門武家である斯波氏であったが、じつはそれ以前より三河守護である一色氏が、『半田市史』に従うならば、「知多郡守護」というべきポジションを確立し、斯波氏の支配が及んでいなかったとされる。
やがて三河では一色氏が応仁・文明の乱(1467―77)のなかで力を失って衰退し、代わって松平氏が勢力を伸ばす。
一方、尾張でも守護の斯波氏が実権をなくし、その後釜をめぐって守護代織田氏の内部で争いが始まった。これに勝利したのが、織田氏のなかでも守護代家の家臣筋にあたる織田信秀・信長父子だ。
ところが、尾張の広範に支配力を及ぼしたその信秀も、知多半島には支配力を行使した形跡が見受けられない。
これは、信秀の権力が斯波氏・織田氏と受け継がれたものであって、その支配下になかった知多半島を手に入れるのには大義名分が足りなかったのではないかと考えられる。
とはいうものの、重要拠点である知多半島がいつまでも空白地帯でいられたはずもない。東には三河の松平氏がおり、西には尾張の織田氏が日の出の勢いとなっていた。二大勢力の境界に位置する水野氏は、どちらにつくかを選ばなければならなかったのである。
この頃のこととして、時の宗家当主・水野忠政(?―1543)の継室・於富の方にまつわるエピソードが残されている。
水野氏の菩提寺・乾坤院(愛知県東浦町)に所蔵されている記録によれば、彼女は「世に隠れなき美色」という美女であったが、その美貌に惹かれたものがあった。松平氏を三河を代表する大名にまで押しあげた、松平清康である。
忠政が「故有って」於富の方と離縁すると、そこに清康が働きかけ、ついに自分の妻として迎え入れてしまった。もちろん、この「故」とは清康による圧力と考えるべきであろう。
於富の方は清康のもとでしばらく過ごし、子も残す。だが、清康は1535年(天文4年)に織田氏を攻めた際、部下の裏切りにあって暗殺されてしまった。いわゆる「守山(森山)崩れ」だ。2人目の夫を失った後、於富の方はさらに2人もの夫のもとを渡り歩いて、最後には出家した、という。
この於富の方のエピソードは、力なき女性、ひいては力なき境界大名が弱肉強食の戦国乱世においてたどる運命の象徴ともいえる。
……ただ、じつのところ本当にこのような悲劇があったのは怪しい。というのも、徳川氏の創業時代の事件を記した家伝にあたる『松平記』には、於富の方が清康の妻となったのは忠政の死後とあるのだが、忠政が死ぬのは清康の死から十数年も後のことだ。矛盾している。
だが、彼女にまつわるエピソードが、ここで紹介したものをはじめ多くの史料に残されていることから、少なくとも江戸時代の人々にとってはリアリティがあるものであったろうと考え、とくに記した。
水野父子の決断
松平清康が死んだからといって、水野氏が境界大名の状態から脱したわけではない。
松平氏は衰退したが、代わって駿河・遠江(ともに静岡県)の大大名である今川氏が、松平氏への影響力を強化する形で三河に手を伸ばしてきたからだ。
結局、水野氏にとって、織田につくか、松平(の後ろにいる今川)につくか、という選択肢を突き付けられていることに変わりはない。
水野氏の選択は、通説によればこうだ。忠政は松平氏につくことを考え、嫡男の水野忠元(?―1575)は織田氏をこそ有力と考えた。
両者の対立は家臣団にまで波及して大きな混乱を生んだが、結局は当主である忠政の「もともと松平氏との縁が深いので、そちらにつくべきだ」という判断があり、また前述の於富の方の働きもあったともいい、松平、ひいては今川方につくことになった。
この頃、同盟の証といえば嫁入りや養子と相場が決まっている。
そこで、忠政の娘である於大が清康嫡男である岡崎城主・松平広忠のもとへ、その姉である於上が形原城主・松平家広のもとへ、それぞれ嫁ぐことになった。広忠と於大の間には竹千代が生まれ、この子がのちの徳川家康になる。こうして水野氏は松平・今川につき、織田氏と対立することとなったのである。
この経緯については異説もあるのでここに紹介したい。
『刈谷水野氏の一研究』(刈谷市教育委員会)によれば、じつは忠政の時代から水野氏と織田氏の間にはつながりがあり、水野・松平の縁戚関係も、信秀の指示によるものではないか、と考えられるという。信秀は水野氏を通して松平氏との間に協力関係を作ろうとしていたのだろう、というわけだ。
また、織田―水野協力関係の根拠として、「忠政はあくまで自勢力の保存を考えており、織田の三河進出で通り道となって滅ぼされるよりも、従うことを選んだのではないか」という推測、及び「松平一族のうち本流から外れて内紛を起こした松平信定(清康の叔父)と水野氏の間の協力関係」が挙げられている。
なるほどいわれてみれば、思い当たる節もある。少し後のことだが、松平氏の後継者である竹千代が盟主である今川氏のもとで人質として暮らすことになった際、途中で身内の裏切りにより織田氏のもとへ送られる、という事件が起きた。この時、信秀は人質交換で返却するまでのしばらくの間、竹千代を手元に置いている。もしかしたら、松平氏を懐柔しようという意図があったのかもしれない。
信秀にどのような意図があったかはわからない。水野氏と裏の取引があったかどうかもだ。だが、少なくとも史実において、信秀時代に織田・松平関係が好転することはなかった。
忠政は松平寄りながらどちらつかずの立場をとり続け、そうこうしているうちに大きな事件が起きる。
1543年(天文12年)、忠政が病に倒れるのだ。代わって当主となった忠元は、速やかに松平との手切れと、織田方への鞍替えを宣言する。そして、織田との同盟を機に信秀の「信」の字をもらい、信元を名乗った。
水野氏の路線変更によって於大・於上の姉妹は家族と引き離される形で嫁ぎ先から実家へ戻されることになってしまう。ふたつの勢力の間に挟まれた境界大名が、代替わりや大きな事件を機に、つく側を変えるのも、またそれによって大小の悲劇が発生するのも、戦国乱世においては珍しくないことだった。
むしろ、於大や於上は「生きているだけまし」というべきなのかもしれない。
独立大名から織田傘下ヘ
織田氏との同盟を果たした水野氏は、すぐさま新たな動きを見せた。南へ向かい、知多半島のすべてを手中に収めようとしたのだ。
以前からその大望はあったはずだが、この時期まで大きな成果を得られていなかったのは、織田・松平に挟まれて背後が危うく、南下政策に全力を注ぐことができなかったということだろう。信秀から知多半島の占領後の領有についても確約を得たはずだ。若き信元は俄然やる気になって兵を南へ進めたのである。
しかし、知多半島の制圧道半ばで、信元は大きな危機に陥る。松平・今川が尾張方面への攻勢を強めたのだ。1549年(天文18年)に織田の三河侵攻拠点である安祥城(愛知県安城市)を奪い取ったことで尾張攻めに移れるようになったということであり、また水野氏の離反を放置しておくと、ほかの国人まで松平・今川を見捨てかねない、という不安もあったのかもしれない。
織田氏としてはこの攻勢を信元が防ぎきってくれることを期待していたようだが、そうはならなかった。
天文年間(1532―55)の末頃には重要な拠点である刈谷城を攻め落とされ、その後、織田・今川の和議によって返還された。これがいつ頃のことかはっきりしないが、天文18年から天文20年にかけてのことであったようだ。
さらに天文23年、信秀から代替わりした織田信長が対今川攻勢を強めたことで織田・今川関係はふたたび悪化し、今川の軍勢が水野氏を攻めた。この時に今川勢力が築いた砦の名から村木合戦と呼ばれる戦いにおいて、水野の軍勢は今川軍によって散々に苦しめられ、織田の援軍に助けられてどうにか自らの所領を守ることができた。
戦乱の時代、独力によって己の領地を守ることができないものは、独立した勢力として認められにくい。境界大名には外交力も求められるが、武家として第一に必要なのはやはり武力なのだ。この戦いの後、信長は重臣のひとりである佐久間信盛を信元のもとに総監として残した。信盛の役目は平たくいえば「監視人」であり、信元を織田氏の望むとおりに動かすための指令役だった。
このできごとをひとつのきっかけとして、水野氏は境界大名としての性質を急速に失い、織田家臣団に組み込まれていくことになる。
信元、信長の不興を買う
信元は決して穏やかな性根の人ではない。むしろ誇り高く、気質が荒かった。織田と同盟するだけならともかく、その支配下に置かれ、信盛にあれやこれやと指示されるのは腹に据えかねることだったに違いない。
しかし、当時の信元はそれどころではなかった。今川の指示と支援を受けた松平が、西三河の支配を安定させるために攻勢に出ていたからである。この時、松平軍を率いていたのは、かつての竹千代――今は「元康」を名乗る信元の甥(信元の異母妹、於大の方が竹千代の母)だ。もちろん、信元も出陣しなければならない。
この伯父と甥は、それぞれの盟主の命を受け、望まぬまま血縁の相手と戦うことになったわけだが、それもまた戦国の世の習いである。境界大名の立場なら、そう珍しくないことでもあった。
血を分けたもの同士の戦いが続くなか、尾張・三河情勢はさらに大きく動く。今川氏の勢力を大きく広げて「海道(東海道)一の弓取り」の異名をとった今川義元が、大軍を率いて尾張へ攻め寄せたのである。通説ではこの出兵は最終的な上洛を企図したものとされてきたが、実際には長年続いてきた尾張・三河をめぐる争いに最終局面が訪れたのだと考えた方がよさそうだ。
この際の信元の目立った動きとしては、義元が「桶狭間の戦い」で織田勢に討たれた後、孤立した元康に撤退を働きかけて、その命を救ったことがある。
これが次なる展開に続くのだが、その前に信元に命を救われたはずの元康が水野氏の所領に攻撃をかけてきたり、別の今川旧臣によって刈谷城を攻め落とされてしまったりと、「桶狭間の戦い」後もしばらく信元にとって気が休まらぬ時期は続いたようだ。
そして、1561年(永禄4年)、織田信長と松平(徳川)元康が同盟を結んだ。信長に同盟について進言し、直接仲介も務めたのが誰あろう信元であった。血縁も理由としてあったろうし、自領を守るためというのもあったろう。加えて、織田家臣団のなかで評価を得るため、功績を立てようとしたというのも大きかったはずだ。
実際、この一件の後、信元は織田家臣団以外の諸家からも重く扱われるようになっている。
織田・徳川同盟の成立では大きな役割を果たしたといっても、結局のところこの時の水野氏はもはや独立勢力ではなく、一家臣にすぎない存在になっていた。いやそれどころか、水野氏家臣や支配下の地域について家康が直々に所領を認めたり命令を下したりしているところから、水野氏は松平支配下に入っていたふしさえある。
1570年(元亀元年)には近江(滋賀県)に出兵、元亀3年は「三方ヶ原の戦い」に徳川救援のため出陣。1574年(天正2年)の伊勢長島一向一揆攻めでは織田信雄の陣に加わっている。
そして、天正3年、破滅的事件が起きる。佐久間信盛が信長に「水野信元は信用できぬ」と報告したのだ。
その根拠は水野氏の領民が美濃の遠山・岩村(ともに岐阜県恵那市など)の地に塩を送ったことだった。この頃、遠山や岩村は武田信玄の支配下にあり、織田と武田は激しくにらみ合う間柄だった。
信長はこれに激怒した。そもそも、村木合戦の頃から信元の能力を疑間視していたらしいこと、また信元が「三方ヶ原の戦い」で勝ち目なしと見るや勝手に逃げたこと(『当代記』)なども、怒りの背景にあったらしい。
結果、信長から家康に「信元を殺せ」と指示が飛んだ。
ここで直接信元への命令とならなかったのは、先に紹介したとおり、水野氏が松平氏の下についていたことを示すものと考えていいだろう。
家康は大いに嫌がり、信長に翻意を求めた。血がつながった相手だということもあるし、家康が水野氏に恨まれることにもなりかねない。だが、信長はあくまで信元の死を求め、ついに信元は寺に誘い込まれて徳川家臣に殺されてしまった――。
その後の水野氏
宗家当主の信元は死んだが、それで水野氏が滅亡したわけではない。信長としても、水野氏を根絶やしにすることを求めたわけではなかった。
しばらくは佐久間信盛が刈谷を預かっていたが、天正8年にその信盛が「働きが悪い」として織田家中より追放されてしまったので、信長としても水野氏の旧領を治める人物を必要とする理由も出てきた。
そこで、信元の弟の忠重(1541―1600)が刈谷城主となり、改めて織田家臣団の一翼を担うことになった。なお、この忠重は織田・松平同盟が結ばれた頃より徳川家臣だったのが、亡き兄の後を継ぐために呼び戻された形である。
忠重は世渡りの才があったようで、その後の動乱をうまく泳ぎ切った。
「本能寺の変」の際には信長嫡男・信忠とともに京の二条城にいたがうまく難を逃れ、その後は信長の子・信雄につく。
信雄は父の後継者足らんと欲してかなわず、ついに父の部下であった豊臣秀吉の前に膝を屈することになったのだが、忠重はその秀吉に直接仕えることができた。豊臣姓を与えられているから、豊臣政権でもそれなりに重く用いられていたのだろう。
秀吉の死後、忠重は旧主君で甥でもある家康に接近するようになったが、「関ヶ原の戦い」を目前にして西軍方に暗殺されてしまう。『徳川実紀』はこれを石田三成の刺客によるものであったと記している。
忠重の後を継いだのは、嫡男の勝成(1564―1651)だ。この男がまた生涯を追ったらそのまま小説一冊になるような人で、武功も多かったがそれ以上に問題が多い。忠重の部下を殺して父に勘当され、秀吉をはじめとして諸大名の元を渡り歩いてはまた騒ぎを起こして追われた末、関ヶ原の戦いの前年に忠重の元へ戻ってきていた。
その後、関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した勝成は、最終的に備後・備中で10万石を与えられるまでに出世を遂げた。
数代後の子孫である勝岑が後継ぎを残さず死んだので危うく断絶するところであったが、江戸幕府の温情で一族から養子を迎え入れ、能登国羽咋郡西谷(石川県七尾市)1万石での存続を許された。その後、2度の加増を経て下総結城藩主(茨城県結城市)となり、1万8千石の大名として幕末まで続いている。
水野の一族はこれだけではない。
まず大名家が合計で四家、他の有名どころとして御三家の一つ紀伊徳川家の附家老として大名さながらの活躍をした家がある。加えて、旗本家も大小含めて多数存在する。
「神君家康公の母君ご出身の家」として敬意が払われた結果と考えていいだろう。