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【戦国時代の境界大名】宗氏――朝鮮半島との交渉・貿易を独占した一族

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日朝貿易を生命線とした対馬の宗氏

日本列島と朝鮮半島の境界というべき対馬(長崎県)の主、宗氏の物語は源平合戦にまでさかのぼる。
平清盛の四男で一族を率いて源氏と戦った平知盛は、壇ノ浦の合戦で入水自殺したが、その遺児が乳母に救われて命を長らえた。その末裔が乳母の姓「惟宗氏」から一字を取って「宗」と名乗ったのが一族の始まりであると語られる(あるいは、その祖は安徳天皇であるとも)。

伝承の真偽はともかくとして、宗氏は鎌倉時代に対馬国で地頭代(南北朝期からは守護)を務め、この地に勢力を築いてきた。またその勢力は対馬の島内だけにとどまらず、南北朝の頃より筑前(福岡県など)にも領地があった――というよりも、本拠は北九州にあって、対馬にいたのは代官であったようである。
また、九州の名門武家である少弐氏との間に主従関係を結んでもいた。

そんな彼らが本拠地を対馬に移したのは15世紀初頭のことだ。
そして、朝鮮との貿易に目をつけ、その掌握を企てた。なにしろわずか50kmと物理的に朝鮮半島との距離が近い。そのため、古くより日本が朝鮮半島に出兵する際にも、あるいは半島(大陸)から侵攻される際にも、この島はたびたびその拠点となり、また攻撃対象になってきたのである。当然、日朝貿易の中継地としても向いている。

日朝貿易は古くから九州、壱岐(長崎県)、そして対馬を拠点として民間で行われていたが、鎌倉時代の元寇を機に中断していた。
しかし、14世紀の半ばから倭寇の活動が活発になってくると、高麗や李氏朝鮮といった朝鮮半島の支配者は、倭寇を抑え込むために日本との交渉を行い、その過程で日朝貿易も再開していった。
とくに、この時期の倭寇は対馬を拠点としていたため、どうにかこの地を抑え込みたかったのである。

宗氏はこれに目をつけ、朝鮮側との交渉において主導的な立場を取るべく動いた。
朝鮮側も宗氏が倭寇を取り締まってくれるなら、それに越したことはない。両者の利益が合致した結果、宗氏は対外交渉・貿易を独占するようになり、そのことがまた対馬のなかでの彼らの立場を強化するようになった。
その過程で筑前にあった宗氏の領地は失われてしまったのだが、それはむしろ対馬での地盤強化の動機になったのだろう。

15世紀後半、宗貞国(生没年不詳)の頃には対馬の諸勢力は宗氏に恭順するようになり、また筑前の領地も回復していたのだが、一方で盟主である少弐氏との関係は破綻してしまった。
そのきっかけは、少弐氏が肥前国(佐賀県など)千葉氏の内乱への介入を、それを渋る宗氏に強要し、結果として少弐の軍勢に多くの損害が出たことであったという(『海東諸国紀』)。

ただ、少弐氏と手切れした貞国は、対馬から京(京都市)への海上通行において重要拠点である博多の支配者・大内氏を新たな盟主として選んでいるので、単に喧嘩別れした以上の意味があったと考えて間違いないだろう。
これがちょうど、戦国時代が始まったばかりの頃のできごとである。

三浦の乱と宗氏の混乱

このように、朝鮮との貿易で大いに潤った対馬と宗氏だが、順風満帆とはいかなかった。
1510年(永正7年)、朝鮮半島南部の三つの浦(港)にあった日本人居住地で、李氏朝鮮王朝に抱いていた不満が爆発し、宗氏が主導する形で争乱が起きる。「三浦の乱」である。

宗氏としては、これを機に朝鮮王朝との関係を有利に持ち込みたかったようなのだが、戦いは宗氏側の惨敗に終わり、貿易を含む通交の全面停止に追い込まれ、日本人居住地も失ってしまった。
慌てた宗氏は将軍まで担ぎ出して関係の改善に努め、どうにか通交は回復したものの、貿易は以前よりずっと規模の小さいものしか許されなかった。

しかし、宗氏を始めとする対馬の人々は転んでもただでは起きない。
もともと彼らは日朝貿易でかなりの部分を占めてはいたが、ほかにも西国大名や商人など貿易の権利を持っているものは各地にいた。その通交権を手に入れることで、名目はともかく実際に貿易をするのは対馬、という形をとったのである。
結果、三浦の乱以後の貿易制限は骨抜きになり、むしろ朝鮮貿易を対馬が独占するようになっていったのだ。

そうして朝鮮貿易がふたたび活況を呈す一方で、戦国時代の対馬は長い間安定せず、混乱していた。当主が次々と交代し、代わっては内紛で倒される時期が続いたのだ。貞国から三代後の宗盛長(生没年不詳)は若くして当主となったが一族を取りまとめることができず、ついにはその不明を恥じて割腹自殺を遂げるに至った。
代わって立った宗将盛(盛賢。1509―73)は新しい屋敷「池の屋形」を作るも、一族の反乱者に追い詰められてこれを放棄せざるを得ず、しかも家臣団からの突き上げを受けて隠居へ追い込まれてしまった。
これが1539年(天文8年)のことだ。

混乱が続くなか、家臣団の要請を受けて立った宗晴康(1475―1563)は優れた手腕の持ち主だった。
血筋としては将盛の叔父にあたり、僧侶として全国を回ったという経歴の人である。すでに60歳を超えていてもう随分な高齢であったが、宗一族の対馬支配に大きな役割を果たした。

というのも、この頃の宗氏家臣団には「宗」氏を名乗るものが多かったのである。
分家や本来は宗氏でないものが好き勝手に「宗」を名乗れば、誰が主人で誰が家臣なのかわからなくなり、支配力が弱まってしまう。そこで、本宗家以外は今住んでいる地名にするなどして宗氏から変える、あるいはもともと名乗っていた氏姓に戻すことを命じたのだ。

そのほかにも、武士の子弟に文字を習わせる、防風林や溜池を作らせるなど、晴康は後世に多くのものを残した名君といっていいだろう。
いくら英明の主でも、歳には勝てない。わずか4年で引退してしまう。彼の後は息子の義調(1532―88)が継いで、謀反を起こして筑前から兵を出した家臣を倒すなど功績を残すも、1566年(永禄9年)にこちらも引退する。まだ若かったのにもかかわらず一線を退いたのは、将盛の子に後を譲るためであり、おそらくは既定路線であったものと考えられる。

ところが、この後にまた宗氏と対馬は混迷の時期を迎えてしまう。
義調に後を譲られた将盛の長男・宗茂尚(調尚。1547―69)は体が弱く、わずか2年で亡くなってしまう。続いて次男の義純が擁立されるも、早世したとも、破廉恥な振る舞いで信を失い、無理やり隠居させられた挙旬に自決して果てたとも伝わっている。
結局、1579年(天正7年)、宗氏の家督は同じく将盛の三男・義智(1568―1615)に譲られる。といってもこの頃はまだ若冠12歳であったため政治の実務には耐えられず、隠居していた義調が政治を見る形がしばらく続いた。
そしてこの義智の時、対馬の情勢は大きく動くことになるのである。

秀吉の野心に振り回される

1587年(天正15年)、義智と義調は筑前国筥崎(福岡市東区)を訪れた。
この直前に義調は対馬守護に復帰している。これから訪れる苦難に、まだ年若い義智では耐えられないと思ったのだろうか。

筥崎で待っていたのは豊臣秀吉である。九州攻めを終えたところだった。
秀吉は二人に対馬一国の安堵を認めたが、これには付属する命令があった。
「朝鮮国王が日本にやってくるように交渉を進めよ」――どこまで本気だったかはわからないが、秀吉はこの時に「九州を平定した余勢をかって朝鮮まで攻め込むつもりだったが、義調が必死に取りなすので攻めない。その代わりに、朝鮮国王が日本まで挨拶に来い」という態度を取っているのである。来なければやはり攻める、と。

日朝貿易で利を得ている宗氏からすればとんでもない話である。しかし、この時の秀吉は東北・関東以外のほぼすべてを手に入れた天下人だ。逆らうことなど思いもよらない。朝鮮との交渉をしなければならない。
交渉途中で義調が病に倒れ、改めて義智が当主となるというアクシデントもあったが、1590年(天正18年)にどうにか朝鮮からの使者を招き入れることができた。
もちろん、やってきたのは国王ではなく、国王の使者にすぎない。また、秀吉は「朝鮮が日本に服属した」と認識し、義智をはじめ周辺の人々もそのように説明したが、朝鮮側はあくまで秀吉の日本統一を祝う使者として来ただけだった。

このようなすれ違いにもかかわらず、秀吉はさらなる目標に向けて突き進む。
そもそも、彼にとって朝鮮など通過点にすぎない。大陸進出――すなわち、明への侵攻こそが目的であり、朝鮮にはそのための手伝いをさせるつもりだった。
もちろん、これも朝鮮にそのまま伝えて受け入れられるような話ではない。朝鮮は明を君主として仰いでいたからだ。いわば、朝鮮もまた境界大名的立場にいたのである。

そこで義智と、同じく朝鮮との交渉にあたっていた小西行長は、秀吉の要求である征明嚮導(明を攻めるための道案内)を仮道入明(明攻めの際に朝鮮国内を通して欲しい)にすり替え、この線で交渉することで朝鮮との関係を決裂させないように苦心した。
だが、そのような境界に置かれたものたちの思惑と奔走も知らぬまま、ただただ長引く交渉に業を煮やした秀吉は、ついに朝鮮出兵を決断した。1592年(文禄元年)、「文禄の役」の始まりである。

苦難の和平交渉

朝鮮情勢に詳しい義智は、当然ながら朝鮮出兵に参加させられた。それも九つに分けられた軍のうち、「ちやうせん国さきがけの御せい」たる第一軍に、小西行長とともに配置されている。
義智は16歳から53歳までの男子をすべてをかき集めて朝鮮へ出陣したが、それでも戦端を開く前にどうにか仮道入明で済まないか、最後の書状を送っている。当然ながら返事はなく、戦いが始まった。

文禄の役の初期、16万という未曾有の兵を揃えた日本軍は連戦連勝で、あっさりと漢城(ソウル)を占領し、平壌(ピョンヤン)まで進んだ。
しかし、朝鮮の各地で義勇兵が立ち、明からは援軍が到着し、海では李舜臣が日本の水軍を叩いて補給線を絶ち――と、日本軍は危機に追い込まれてしまう。

そこで講和交渉が始まったのだが、この時も開戦前と同じく種々のすれ違いが発生した。
秀吉は「明皇帝の姫を日本の天皇の后にすること」をはじめとする7つの条件を突きつけたが、1596年(慶長元年)に来日した明国使節の返事は「秀吉を日本国王と認める」で、秀吉の条件はひとつも反映されていなかった。
これは間に入った義智や行長らによって秀吉の意思が歪められたということである。また明側からすれば、「明が日本国王として認めるのは大きな褒美である」という認識があったからこその返事であったわけだ。

無論、そんなことは秀吉の理解の範疇にはない。すぐさま第二次朝鮮出兵――慶長の役が始まった。
この時も義智は朝鮮の各地を転戦したが、大きな戦果を得ることのないまま、秀吉の死によって朝鮮出兵そのものが中断。対馬へ帰還することになった。

宗氏と日朝関係の復活

秀吉死後の「関ヶ原の戦い」において、義智は西軍についた。
行長の娘マリアを妻に迎えている関係からであったが、本人が大坂城に残ったとはいえ、伏見城攻めや関ヶ原本戦に重臣が代理で参戦したにもかかわらず、改易の憂き目に合うことはなかった。これは、朝鮮との和睦、関係復活を狙う家康にとって、宗氏は必要な存在だった、ということがありそうだ。

そして1601年(慶長6年)、ようやく義智らの手によって、朝鮮との交渉が再開された。
この際、朝鮮側としても関係復活は望むところであったが、あまり性急に行うとやっとこの頃朝鮮から兵を引き上げたばかりの明から「朝鮮は日本と手を結ぼうとしているのではないか」というあらぬ疑いを受ける可能性があった。そこで、交渉は当初ゆっくりと進んだようである。

一方、宗氏としてはこの交渉は急ぎたかった。
貿易が復活しなければ2度の朝鮮出兵による痛手が癒やされない。また、徳川家康も早期の朝鮮との関係修復を望んでいた。
この時期の義智は大いに焦っていたに違いない。国書を書き換え、偽の使節を仕立ててまで、日朝関係を修復しようという動きが見られ、このことがのちの大問題へつながっていく。

義智にとっては幸運なことに、明の側に朝鮮への支配力を強めようとする動きが見られたことから、朝鮮側が方針転換をする。独立性を守るため、早い時期に日本との関係を復活させようということになったからだ。
結果、慶長12年に日本へ朝鮮の使者が訪れ、その2年後には己酉約条が結ばれる。これによって日朝の貿易が復活し、また江戸時代の日朝関係の雛形が形づくられることになった。
対馬藩宗氏は日朝の境界という性質を維持したまま、江戸時代へ入ったのである。

その後の宗氏

ただ、江戸時代初期にはしばしば見られたことだが、宗家の内部でも藩主と重臣の対立が起きた。
この主役を演じたのは、義智の腹心として秀吉・家康との交渉から朝鮮との外交に至るまで獅子奮迅の活躍をした柳川調信の孫、柳川調興だ。

調興は非常な才人であり、自らより1歳下の藩主・宗義成(義智の子)を侮ることはなはだしく、その命令に反し江戸や駿府に3年居座るという暴挙に出たほどだ。
この主従対立と、宗氏の支配下から離れて徳川家直参になりたいという調興の欲求が膨れ上がった結果、ついに調興は江戸幕府に独立することを訴え出た――しかも、かつての国書改竄・偽使節の暴露というおまけ付きである。

のちに「柳川一件」と呼ばれたこの事件は、最終的に時の将軍・徳川家光の判断にゆだねられた。
家光が下した判決は「国書改竄は柳川家によるものであり、宗義成は無罪」であった。日朝関係にこれ以上の波風を立てないための判断であったろうか。その後、調興は津軽へ流罪となり、その地で生涯を終えている。

この事件は対馬藩を危機に追いやったが、一方で家臣団を再編して支配体制を確立する機会にもなった。
加えて、日朝外交の仲介役として特権的な地位を確立し、さらに実際の所領が対馬と肥前国のものを合わせて3万石弱(のちに2万石加増)であったにもかかわらず、17世紀半ばより10万石を名乗ることを許されるなど、三百藩諸侯のなかでも独特の地位を持つに至った。

立場上、転封・改易などないままに約250年を過ごした宗氏だが、その位置から幕末にはたびたび騒動に見舞われた。
ロシア軍艦ポサドニック号が来航して居座った事件、国替え運動をしていた家老が暗殺された事件などがそうだ。これらの混乱の結果、尊王攘夷派と佐幕派が内部で相争い、藩論を統一できないまま明治維新を迎えることになった。

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