自称「海賊の末裔」
肥前国(長崎県ほか)は島原半島に有馬という地がある。ここから現れた有馬氏は、自らの祖を平安時代に平将門と同時期に朝廷に反逆を起こした海賊大将・藤原純友としていた(『藤原有馬世譜』ほか)。
ただ、これは信憑性が低い。この類の家祖の伝承は後世に騙ったものと考えられていて、決して珍しい話ではない。
では実際は、というと肥前藤津荘荘司の平直澄の血筋、つまり平氏の末裔であったようだ。直澄の子孫が肥前の高来郡有馬荘の地頭に任命されたことが有馬氏の名乗りの始まりとされる。
なお、有馬氏はほかに摂津(大阪府)に別系譜の氏族があり、これが豊臣秀吉に仕えて出世し、筑後国(福岡県)久留米藩をはじめとしていくつかの大名家を輩出するに至っている。ただ、こちらの有馬氏は、播磨(兵庫県)の名門・赤松氏から分かれたものであり、摂津有馬郡有馬荘を名の由来とするものであり、本項で紹介する有馬氏とはまったくの別族である。
さて、肥前国有馬の周辺には肥後(熊本県)の菊池氏、北九州に広く勢力を持った少弐氏と名門武家がいて、有馬氏もこれらに従っていた。
その勢力拡大の契機は、1491年(延徳3年)。戦国時代初期の有馬貴純(生没年不詳)の時、この頃衰退していた少弐氏の復興を図る少弐政資が松浦氏を攻めた際に同調したことにある。
下松浦氏を攻めた貴純はこの功績を政資に評価され、白石・長島の地を与えられたという(『北肥戦誌』)。
戦国大名化で全盛期を迎える
そして貴純の孫、晴純(1483―1566)の時に有馬氏は戦国大名化し、全盛期を築いていく。
この時期、肥前周辺には特別に有力な大名が存在しなかった。そこで晴純は周防(山口県)の大内氏と手を組み周辺勢力を牽制することで大いに勢力を伸ばし、有馬氏は肥前一の大名となった。また嫡男の義貞(1521―76)以外の子を、大村氏をはじめとする周辺勢力に養子として送り、政略での影響力拡大を進めた。
といっても、ポルトガル人宣教師ルイス=フロイスが『イエズス会日本年報』のなかで「豊後の王(大友氏)」「薩摩の王(島津氏)」「日向の屋形(伊東氏)」と並んで「肥前のほとんど全部を領する有馬の屋形」と称したのは誇張というもので、実際は肥前十一群のうち高来郡を中心に東部四~六郡を支配する程度であったと考えられている。
しかし、1552年(天文21年)に晴純が隠居した後の有馬氏は、危機の時代を迎えることになる。佐賀の龍造寺隆信が一気に勢力を伸ばしたからだ。
1560年(永禄3年)、義貞の時、有馬氏は伸長を続ける龍造寺に一撃を加えるべく出陣したが大いに敗れてしまった。
この頃まだ実権を握っていた晴純は、当主になっていた息子を一時追放し、代わって己が表に出たというから、よほどの敗戦であったと考えてよいだろう。
島津氏の下で宿敵を討つ
義貞の後、その長男の義純が後を継いだが若くして死んだので、1571年(元亀2年)に義純の弟・晴信(1567―1612)がわずか5歳で当主となった。
義純時代、そして晴信時代の初期は、いよいよ龍造寺による攻勢が本格化し、有馬氏の勢力は次々と削られていった。大村氏・西郷氏といった縁の深い家から救援要請を受けても援軍を出すことさえできず、結果として1577年(天正5年)、西郷氏は有馬氏より離反、龍造寺氏の支配下に入っている。このような味方の脱落は以後も続き、また家臣団の不穏な動きも生じ、有馬氏は追い詰められていくことになる。
そこで晴信が頼ったのは南九州の雄、島津氏だった。
鎌倉以来の名門ながら内紛が続いていたこの一族も、島津貴久の時に一族を統一、その子・義久の時にはかつて支配していた薩摩・大隅(鹿児島県)・日向の3カ国をふたたび自らの支配下におくという悲願を達成している。
島津の勢力拡大はその後も続き、天正10年には肥後にまで手を伸ばし、龍造寺氏と対立するようになっていた。こうなれば、有馬・島津の利害は一致する。晴信の要請を受け、義久は弟の家久を救援の総大将として送った。
有馬・島津連合軍と龍造寺軍が島原半島で激突したのは天正12年のことだ。
連合軍は合わせても5千であったのに対して、龍造寺軍は8万とも2万5千ともいい、しかも多数の銃、さらに大砲までも戦場に持ち込んでいた。連合軍は圧倒的に不利といっていい。
ところが、龍造寺の大軍はおごりから浮足立ち、また泥濘に足を取られて攻めあぐねた。そうこうしているうちに島津の伏兵が現れ、総大将の隆信を討ち取った。戦いは連合軍の大勝利に終わったのである。これを「沖田畷の戦い」という。
こうして有馬氏滅亡の危機は過ぎ去った。
だが、身を守るために強者の力を借りるというのは、その強者の支配下に入るということだ。以後、有馬氏は島津に臣従することになる。
キリスト教の庇護による富国
ここまではあえて触れなかったが、有馬氏にとって重要なできごとがあった。キリスト教の流入である。
そのきっかけは大村純忠の改宗だった。純忠は先に記述した有馬晴純が大村氏に入れた養子の一人で、自然とキリスト教のこと、またそれを縁としてポルトガル船が領内にやってくる可能性などの情報が有馬氏にも入ってくる。
時の有馬氏当主・義貞は宣教師を迎え入れ、話を聞いたうえで布教を許可した。1560年(永禄3年)のことである。
もちろん、反発もあった。キリスト教を邪教と罵る仏教徒たち、そしてまたこの頃隠居状態ながら実権を持っていた義貞の父、晴純だ。
結果、一時有馬領においてはキリスト教が禁止、弾圧を受ける。ところが、豊後の大大名・大友宗麟と晴純の交渉において、宣教師に助けられたことから方針を撤回、布教が許されたという。
このできごとはルイス・フロイスの『日本史』に記されているが、同時に熱心なキリスト教徒であった大友宗麟による働きかけがあったとも書いてある。そのため、宣教師の親切さに感銘を受けたというよりは、大大名の圧迫を受けて方針を変えたと考えたほうがいいのかもしれない。
やがて義貞は洗礼を受けてキリスト教徒となり、その子である晴信もまた父にならった。といっても、晴信は当初キリスト教に敵対的であり、むしろ弾圧さえしている。にもかかわらず1580年(天正8年)になって方針を転換したのは、ここまで書いてきたような龍造寺氏からの圧迫に対抗するため、大村純忠との関係を強化することを望んだからだ。
しかし、同時期に大村氏は龍造寺氏の支配下に入ったので、この行為はあまり意味がなかった。だが、別の利益はあった。宣教師たちの口利きにより、領内の口之津(南島原市)の港にポルトガル船がやってくるようになり、南蛮貿易が盛んになったのだ。
この貿易は有馬氏に富を与えたが、それだけではない。大砲のような武器、鉛・硝石など火器に必要な弾薬材料、さらには食料も送り込まれ、有馬氏の軍勢を支えた。
有馬氏が圧倒的な龍造寺の攻撃を前に滅びずに済んだことの背景として、こうした宣教師たちの支援があったのは間違いない。龍造寺側もまたそのことを脅威に思い、時に和睦を申し込んだことさえあるとフロイスが記している。
ふたつの事件とその後の有馬氏
さて、話を有馬氏の趨勢に戻そう。
龍造寺から身を守るために島津の傘下に入った晴信だが、1586年(天正14年)から豊臣秀吉による九州攻めが始まると、すぐに豊臣方についた。薄情な振る舞いにも思えるが、生き残るためには当然のことだったともいえよう。戦後、本領4万石をそのまま安堵されている。
文禄・慶長の役にはほかの九州諸大名と同じく朝鮮へ出陣し、肥後の大名・小西行長らとともに活躍した。その縁もあってか、「関ヶ原の戦い」では、当初小西らの属す反徳川方の西軍についたが、すぐに東軍へ寝返って九州で西軍と戦い、戦後も咎めを受けることはなかった。
こうして江戸時代に入った有馬氏だが、むしろ困難はここからだった。
まず起きたのは、「ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号事件」である。前提として、晴信は徳川家康の許可のもと、海外との朱印船貿易を熱心に行っていた。その貿易相手は東南アジアの国々である。
そんな晴信に、家康が伽羅(香木の一種)の入手を依頼したのは当然の流れである。晴信は久兵衛という元南蛮人の男に購入を託し、船を出した。ところが、1609年(慶長14年)、取引をめぐり久兵衛たちはマカオでポルトガル商館のものたちと衝突して死人を出し、金や荷物を奪われてしまった。
日本へ戻ってきた久兵衛から事情を聴いた晴信が家康に報告すると、「その男たちが船に乗って日本へやってきたらこれを討ち取るように」と命が下った。
そして翌年、まさに久兵衛たちを鎮圧して死者も出したアンドレ=ペッソアが指揮する、ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号が長崎にやってきた(この船は「マードレ=デ=デウス号」としても知られる)。
晴信は家康の許可を取って自らこの船に攻撃を仕掛け、ついに撃沈する。なお、家康がポルトガルとの関係悪化の可能性がありながら攻撃を許したのは、オランダとの貿易のめどがついていたからだったようだ。ともあれ、これで南蛮船をめぐる事件は解決となった。
ところが、事件は新たな展開を見せる。家康にその活躍を大いにほめられたことから、晴信は「今回の事件の恩賞として、かつて龍造寺氏に奪われ、その後鍋島氏に継承された旧所領を取り返せるのではないか」と考えたのだ。
しかし、所領問題はそうたやすく解決するものではない。そこで晴信は、家康側近・本多正純の家臣である岡本大八の申し出た斡旋話に乗り、多額の金銭を大八に提供した。だが、いつになっても褒美の話はない。そこで晴信が直接正純に確認したことから、斡旋運動は行われておらず、この一件は大八によるまったくの詐欺事件であることが判明する。
当然ながら大八は裁きにかけられ、牢獄に入れられた。しかし、そもそもこのような詐欺にかかること自体が晴信の信用を低下させ、さらに大八が「晴信は以前から不仲だった長崎奉行の長谷川藤広を殺そうとしていた」と主張したことで、晴信も危機に立った。結局、説得力のある弁明ができなかった晴信は甲斐へ配流の末、切腹に追い込まれてしまったのである。これを「岡本大八事件」と呼ぶ。
晴信は日本と異国の境界に立つことで力を得て、また境界大名らしい強者との関係性によって生き残ってきた大名だ。だが、少なくともこの一連の事件においては、彼の立ち回りは小賢しく、己の首を絞めたといえよう。
しかし、有馬氏そのものが改易、ということにはならなかった。晴信の子・直純が後を継ぐことを許され、直純はのちに1万3千石を加増されて日向延岡へ移封された。延岡では後代の清純が藩主の際、農民一揆のため3千石減知で越後糸魚川に転封、さらに越前丸岡に移された。
以後、有馬氏はここの藩主として続き、幕末、そして明治の廃藩置県を迎えている。
この間、外様から譜代格となっていた有馬氏は、幕末の藩主・道純が若年寄や老中と幕閣につき、2度の長州征討にも参加するなどしたが、戊辰戦争にあっては速やかに新政府側についた。
気を見るに敏なところは先祖譲りといったところか。