内憂外患の領国経営
相良氏はもともとの出自を藤原一流である藤原南家乙麻呂流とし、遠江国(静岡県)榛原郡相良(牧之原市)に住んだことから今の名を名乗った一族である。工藤氏の庶流に当たり、本連載の別記事で紹介する伊東氏は同族であった。源平合戦の際には源頼朝に従い、肥後国多良木荘(多良木町)・人吉荘(人吉市)の地頭となって九州へ移っている。
その後、多良木荘を継承した一族が上相良氏、人吉荘を継承した一族が下相良氏と呼ばれ、南北朝期に入るまでは前者が惣領家、すなわち本家の位置を占めた。しかし南北朝の騒乱のなかで、上相良が南朝、下相良が北朝について激しく争い、これを機に後者が惣領家となった。さらに下相良氏は肥前国(佐賀県など)守護にもついており、この地域では有数の武家になったといっていいだろう。
また、戦国時代に入る直前の1448年(文安5年)に下相良氏の本家筋が力を失った際には、庶流から当主となった相良長続(1411―68)が上相良を滅ぼし、相次ぐ反乱も鎮圧して、球磨郡を統一した。室町幕府の権力が衰退し、諸大名が勝手に争うようになる世の中で、相良氏もまた戦国大名化を進めていくことになる。
その支配地は球磨を中心に、葦北、八代、時には天草、さらには日向国(宮崎県)や薩摩国(鹿児島県)方面にも広がったが、戦いのなかでせっかく得た所領を奪われることもしばしばあった。周辺には数多くのライバルがひしめき合っていたからだ。
この頃、相良氏の周辺には南に日向の北原氏、そのさらに南方の薩摩には島津氏がいた。一方、北には肥後の宇土(宇土市)に名和氏、そして菊池郡に菊池氏がいる。そのなかで、代々の相良氏当主は生き残りと勢力拡大を目指して奮闘していくことになった。
このうち、菊池氏は肥後や筑後(福岡県)に広い影響力を持っていた名門で、相良氏も戦国時代初期には痛い目にあっている。1499年(明応7年)、長続の子・為続は菊池能運の軍勢に敗れ、八代から追い出されてしまう。これに島津をはじめとする周辺勢力も乗じたため、為続は息子の長毎に後を譲って隠居し、さらに島津から割譲されていた牛山の地を差し出すことにまでなってしまった。
しかし、菊池氏は能運の死後、内紛によってその勢力は衰え、あまり時を置かずに大友氏によって滅亡している。また、相良氏がこの時に失った八代の地も、1504年(永正元年)には長毎の活躍で取り戻していた。
そして、この南九州一帯で最も大きな力を持っていたのは薩摩の島津氏だ。内紛も多かったが勢力が大きく、相良氏は縁戚関係がありながらも長い歴史のなかで幾度か争って、痛い目にあっている。ただ、戦国時代には時に争いながらも友好的関係を築いていた時期が長かったようだ。
義滋・晴広時代の隆盛
長毎の息子の長祗(1501―35)はわずか12歳で家督を譲られたものの、一族の相良長定に反逆され、自害へ追い込まれてしまう。
しかし、長祗の庶兄に当たる義滋(1491―1546)が立ち、上村城主(あさぎり町)で義滋と従兄弟の間柄にある上村頼興の助けを得て、どうにか相良一族内部の内紛を収めることができた。義滋の後は相良晴広(1513―55)が継いだ。この晴広は上村頼興の子で、養子として迎えるのが義滋を手助けするときの頼興の条件であったらしい。
この義滋・晴広の時に相良氏は天草の争いに介入して長島(鹿児島県長島町)を手に入れるなど、力を伸ばしている。
また、相良氏が支配する八代は古くから海外貿易の重要拠点であり、しかもこの頃には周防(山口県)の大内氏との関連から貿易が盛んになり、大いに潤った。1542年(天文11年)には義滋が琉球(沖縄県)ヘ貿易を求めて船を出している。
たびたび一族や家臣による内乱もあり、また義滋・晴広を助ける上村頼興が、人気を伸ばす弟の上村長種を謀殺するような血なまぐさい事件もあったが、それが相良氏を揺るがすようなことはなかった。
しかし、相良氏にとっての危機が近づきつつあったのもこの頃である。豊後(大分県)の大大名、大友義鑑が肥後へ進出する構えを見せていたのだ。義滋は阿蘇・名和といった周辺勢力と結び、また菊池氏を継承していた菊池義武(大友一族で義鑑の弟だが兄とは不和)とも結んで、対抗した。だが晴広の頃、義武は義鑑の後を継いだ甥・宗麟(義鎮)に敗れて勢力を失い、相良氏に匿われていたところを誘い込まれ、殺害されてしまった。
そして、晴広の晩年の頃にはもう一つ、相良氏に危機が迫っている。
内紛続きであった島津氏が、島津貴久の時に一族の統一を果たし、薩摩の統一へ、そして北進へと歩を進めつつあったのだ。
大友氏が許さなかった「義」の一字
そんななか、晴広の死によって1555年(弘治元年)、嫡男の義陽(1544―81)がわずか12歳で家督を継承することになった。
しばらくは祖父の上村頼興が後見したものの、彼が亡くなると親族による相良氏所領分割の陰謀や、重臣同士の対立・内紛などもあったがどうにか切り抜けている。
義陽の時代、大友氏との関係は複雑で、時に晩み合い、時に対立する微妙な間柄が続いた。
これに関係する興味深い一件がある。本項では彼の名を時の将軍足利義輝から一字をもらった「義陽」の名で統一しているが、彼がこれを名乗るには長い時間が必要だった。というのも、義輝が「義」の一字を渡し、また「修理大夫」の役職を与えると発表したところ、大友宗麟が「待った」をかけたからだ。「そんなことは前例がない」というわけだ。
宗麟の目的は多年に渡って睨み合ってきた相良氏への嫌がらせだったが、それだけではない。大友氏は代々に渡って「義」の字を受け、「修理大夫」の官職も授けられてきた。そこに、伝統でも実力でも劣る相良氏が同じ扱いを受けるのは納得がいかない、格が違う、という思いがあったのだと考えられる。
この時、義輝自身は宗麟の抗議を退けたが、結局義陽は10年以上もの間この名を使えなかった。宗麟が認めなかったからだ。大友氏の権威にはそれだけの力があったのである。
現代の私たちからすると少々馬鹿馬鹿しくも思える顛末だが、しかし当事者は相良も大友も必死であったに違いない。中小の勢力を己のもとにつなぎとめなければならない戦国大名にとって、権威にはそれだけの意味があったのである。
そしてまた、大大名の顔色をうかがわなければならない境界大名の悲哀もまた、ここに現れている。
島津の前になすすべなく
1576年(天正4年)、ついに南の脅威が動く。
薩摩・大隅・日向の3国を統一した島津義久(貴久嫡男)が、本格的な肥後侵攻に取り掛かったのである。前述のとおり、相良氏と島津氏の間には長年の関係があったのだが、ことここに至って容赦はなかった。
あっという間に天草を落とした島津の軍勢に対して、義陽をはじめとする相良軍は必死の抗戦を行い、幾度かその攻撃を退けている。また、義陽は以前より関係を深めていた九州三強の一角で肥前の龍造寺隆信に援軍を求めるなどの努力を続けていたが、結局天正9年に水俣城(水俣市)を攻め落とされると、島津氏の前に頭を下げた。その支配下に入ることでの生き残りを図ったのだ。
降伏が境界大名の強かさなら、大大名の賢さはその境界大名を手駒として使うことであろう。義久は、肥後で反島津勢力として最後に残っている阿蘇氏攻めを、義陽に命じた。
天正9年、義陽は阿蘇氏の重臣で古くからの友人でもある甲斐宗運と、響ヶ原(宇城市)に戦い、討ち死にした。この時、義陽は自らの死を神官に祈願させて戦場に向かい、敗北必至の状態になってなお陣から動かず、そのまま敵兵の手にかかり死んだという。己の命を捨てることで、島津氏との約束を果たそうとしたのだろうか。
秀吉の九州攻めで光明が差す
こうして当主を失った相良氏だが、御家断絶の憂き目に合うことはなかった。義陽の嫡男・忠房が家督継承を許されたからだ。
しかし、せっかく広げた所領は球磨郡以外を没収されてしまい、島津氏の支配下でその圧迫に耐えるしかなかった。もちろん、人質も取られている。戦国の世の習いであった。
忠房が1585年(天正13年)に疱療(天然痘)でこの世を去ると、人質として島津氏のもとに送られていた弟の長毎(頼房。1574―1636)が呼び戻され、家督を継ぐ。
この時期は島津氏の勢力が絶頂を迎えつつあった。天正6年には「耳川の戦い」で大友氏を、天正12年には「沖田畷の戦い」で龍造寺氏をと、ほかの九州三強を次々と打ち破り、九州統一も日前かと思われていたのである。
だが、島津氏の躍進にも時間切れが迫っていた。中央をほぼ制圧し、関白の位を得た豊臣秀吉が、九州の大友氏・島津氏の両者に天下人の権威をもって「争いをやめるように」と命じてきたのだ。これに島津氏が従わなかったので、ついに天正14年から豊臣方の軍勢が島津氏征討のために九州攻めを開始したのである。
この戦いにおいて、相良勢は島津軍の一員として果敢に戦った。相良家臣の岡本頼氏が戦場での様子を書いた『岡本文書』は島津軍撤退のための殿を相良勢が務めたことを記している。
だが、いくら島津軍が強かろうとも、そのなかで相良勢が奮闘しようとも、やはり天下人相手には多勢に無勢であった。結局、島津義久が秀吉に降伏し、九州平定の戦いは終わったのである。
島津側について豊臣氏と戦った相良氏であったが、重臣の深水長智(宗方)が必死に秀吉に懇願したのが功を奏したか、旧領を安堵され、島津の軛(くびき)から解放されることになった。この時、秀吉は宗方を気に入って自らの家臣にしようとしたが、宗方は固辞した、と『求磨外史』に記されている。
その後の相良氏
こうして豊臣政権の大名として独立を果たした相良氏だが、その後の運命も決してなだらかな道ではなかった。
文禄・慶長の役においてはほかの九州勢とともに朝鮮への出陣を命じられ、加藤清正の指揮下で戦った。しかし、2度ともに義陽を補佐する2人の重臣が対立し、大きな混乱をもたらした。
1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」直前、徳川家康が上杉景勝の会津攻めを企てると、長毎はこれに参加するべく出陣していた。ところが畿内ではすでに石田三成が挙兵し、徳川家臣の籠る伏見城(京都市伏見区)を攻めている。
長毎はあくまで家康に味方することを望んだが、畿内は三成ら西軍の勢力が圧倒的だったので諦め、しかたなく西軍に与した。しかし心中ではあくまで家康の味方をするつもりで、ひそかに徳川重臣の井伊直政に使者を送った、と『求磨外史』は語っている。
実際のところ、長毎が関ヶ原本戦に参加することはなかった。関ヶ原(岐阜県関ケ原町)近くの大垣城(大垣市)に在陣し三の丸守備を命じられていたからだ。
そして戦いの趨勢が決まったと見るや、長毎はほかの三の丸守備の大名と語り合って、二の丸守備の大名たちを謀殺。大垣城を東軍に明け渡し、降伏している。しかも実行前に徳川重臣の井伊直政に書状を送り、徳川方に自分たちの裏切りを確認させておく用意周到ぶりであった。
この裏切りが功を奏したのか、徳川政権――江戸幕府においても、相良氏は旧領を安堵された。
人吉2万2千石の大名として江戸時代に入った。その後、初期には内紛もあったが幕府によってお咎めを受けることもなく、幕末まで無事続いている。