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明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁

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赤井直正――辞書によっては「荻野直正」の名で記されている人物である。
というのも、丹波の国衆・赤井氏に生まれた彼は、若くして荻野氏に養子へ出されているからだ。
こうして荻野氏の当主となった彼だが、認めない勢力もいて、内紛が起きる。直正はこれを打ち破ってしっかりまとめている。
その後、幼くして跡を継いだ甥の補佐をする形で赤井氏も取りまとめることになり、このため「赤井」の名前で呼ばれることが多いようだ。

以後、周辺勢力を次々と打ち破って丹波に大きな勢力を広げるようになった直正だったが、彼もまた畿内で起きた重大な事件と無縁ではいられなかった。
1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛し、義昭を将軍にしたのである。この時、直正は信長と義昭に恭順する姿勢を示している。
同時期より但馬方面へたびたび進出しているから、別方面に煩わしい問題を抱えたくなかったのだろうか。

しかし、信長と義昭が仲違いを始めると、まったく無関係の態度を示すわけにはいかなくなる。
直正は義昭寄りの姿勢をとった。京を追われた義昭から直正に味方になるよう働きかけがあったり、直正と武田氏が連絡を取った書状があったり、と証拠も残っている。
ただ直正としてはあまり積極的に信長と戦う気はなかったようで、1575年(天正3年)に織田軍が丹波に進出してきて初めてはっきり抵抗する姿勢を示した。この時の織田軍の司令官が明智光秀である。

このときのいわゆる「第一次丹波攻略」において、直正は光秀をかなり苦しめた。
光秀の軍勢が丹波にやってくるや、但馬攻めからすぐに戻って本拠地の黒井城に戻って立て篭もり、ついに翌年まで粘って波多野氏の援軍の力も借り、織田軍を追い返してしまったのである。
直正は『甲陽軍鑑』に「名高キ武士」としてその名を記されている(しかも彼に続く形で長宗我部元親、徳川家康、松永久秀と名だたる名将たちの名が上がっている)のだが、それはこの時の奮戦のおかげかもしれない。

彼は2年後に50歳で亡くなるまで織田軍と戦い続け、光秀の丹波支配を防いだ。
光秀がようやく丹波を統一し終えるのは直正の死の翌年、1579年(天正7年)のことであった。もし、直正による頑強な抵抗がなく、もっと早く丹波攻めが終わっていたなら、光秀の運命は変わっていただろうか。

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