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明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

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明智家の家老であるとともに徳川幕府三代将軍・春日局の父として知られる斎藤利三は史料に乏しく、素性がよくわからない人である。
そもそも生まれがあやふやだ。『美濃国諸家系譜』によれば1538年(天文7年)生まれで、『寛永諸家系図伝』をもとにすると1534年(天文3年)生まれになる。
父母の名や素性もまちまちで、史料によっては明智光秀の妹あるいは叔母の子であるという。

美濃の生まれで、斎藤義龍に仕え、その後稲葉一鉄の元に移った。
一鉄の娘あるいは姪を妻に迎えたというから、かなり重く扱われていたのではないか。
信頼できる史料において彼の名前が初めて登場するのは『信長公記』で、1570年(元亀元年)の金ヶ崎撤退戦の直後、一鉄のもとで一揆の鎮圧などに働いたことがわかる。

ところが、利三は一鉄の元を離れ、同じ織田家中の光秀の家臣になった。
原因はわからない。何かの方針や待遇で対立したのか、それともドラマのように酷い扱いをされたのだろうか。
『当代記』には信長によって勘当されて光秀が密かに匿ったと記されているので、一鉄の元を離れた理由やその時の手続きに、利三・光秀側に何か非があったのかもしれない。
結果として信長の怒りを買った利三が身を隠さざるを得なかった、というのはありそうだ。
1580年(天正8年)頃には津田宗久の茶会に参加するなど公的な活動をしているので、信長の勘気も解けたものと考えられている。

利三は光秀の元で一万石を与えられ家老として活躍した。
親族(兄の義妹)が長宗我部元親に嫁いでいたことから、光秀が長宗我部と交渉するにあたって重要な役割を果たしている。
しかし信長の対四国方針が転換し、光秀が厳しい状況へ追い込まれたのはすでに紹介したとおり。長宗我部交渉の最前線にいた利三もまた、明智家中で難しい立場になってしまったのではないか。

この四国問題が謀反につながったのであれば、利三が「本能寺の変」にも参加し、先鋒を務めたのは当然のことであろう。この時、主従は運命共同体であったはずだ。
彼は「山崎の戦い」にも参加し、敗れた後は姿を消したが捕らえられ、処刑された。主君・光秀とともに磔になったことが知られている。
なお、娘の福は母方の稲葉氏のもとで育てられ、のちに徳川家光の乳母になって徳川政権の安定化に尽力にすることになる。

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