細川忠興は光秀の盟友・細川藤孝の嫡男であり、光秀の娘のたまを娶った男でもある。
幼少期、忠興は父と別れて暮らしていた時期がある。足利義輝の死後、藤孝が覚慶(のちの義昭)を連れて畿内を離れていたので、幼い忠興は家臣に匿われて京に潜んで暮らすことになったのだ。
その後、藤孝が畿内へ戻ると忠興もその手元に戻り、長じると父とともに織田家臣として活躍するようになる。忠興の名は信長の嫡男・信忠から一字もらったものであり、将来は信忠を支えることを期待されていたのだろう。
また、忠興は有名な馬揃え(京での軍事パレード)にも参加したと考えられているのだが、この時に信長が身につけていた絹の小袖は忠興が京で探したものであると伝わる。のちの文化人・忠興の萌芽といえよう。
一方で忠興はこれらの織田家臣としての活躍に先立ち、主君・信長の命によって1574年(天正2年)に12歳でたまと婚約をし、その4年後に結婚している。新婚生活は元々の居城である勝竜寺城で過ごすことになったが、2年後には藤孝・忠興が丹後へ国替えとなったので、若夫婦も宮津城へ移ることになった。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」においては、父とともに義父・明智光秀ではなく羽柴秀吉に味方することを選び、妻も蟄居させてしまった。以後は隠居した父に代わって細川家当主となって秀吉に味方し、またその秀吉の赦しによって、たまを再び手元に戻した。
豊臣家臣としての忠興は加藤清正・福島正則らとともに武断派の主要人物として数々のいくさで活躍し、国内での戦いだけでなく朝鮮出兵にまで参加している。
しかしそれゆえにか石田三成ら文治派と対立することになった。結果として忠興たち武断派は徳川家康に味方して「関ヶ原の戦い」で東軍につき、家康による江戸幕府成立に力を貸すことにもなったのだった。
なお、この戦いに先立って忠興が最愛の妻・たまを失ったのは以前紹介した通りである。
関ヶ原後、細川家は北九州に四十万石弱の領地を与えられ、さらに忠興が隠居した後に加藤家が取り潰された後の肥後熊本へ移された。
忠興は隠居後も陰に日向に影響力を発揮する一方で、文化人としても名を馳せた。特に茶湯については千利休の高弟・利休七哲の一人としてよく知られている。
改めて「本能寺の変」後の情勢を振り返ってみると、忠興にとって好ましい相手は秀吉ではなく光秀であったはずだ。
最愛の妻の父であり、もとより縁が深く、また文化的素養の点でも理解しやすい相手であったろう。にもかかわらず、忠興は光秀を見限った。
当人の思いとは関係なく父に従うしかなかったのだろうか。それとも、若き忠興の目から見ても光秀に勝ち目はなかったのだろうか。若者ゆえの潔癖さが出たのかもしれない……忠興が激情家であったことはよく知られている。
すべては想像の外へ出ないが、細川家が戦国の動乱の中で命脈を保ち、太平の江戸時代を迎えたことだけは間違いない。