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【戦国時代の境界大名】亀井氏――毛利氏との御家再興をめぐる死闘に転機到来!?

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主家尼子氏とともに御家断絶

亀井氏は出雲国(島根県)熊野社の神職鈴木氏を祖として持つ一族である。
源平争乱の時には源義経配下として活躍し、その後、紀伊国(和歌山県)亀井に住み着いたことから亀井氏と名乗った。やがて戦国乱世の頃に出雲国へ移り、ここで尼子氏へ仕えて頭角を現し、重臣となっている。

この時の判断は大いに理解できるものだ。というのも、戦国時代中期の天文年間(1532―55)頃まで、中国地方は周防国(山口県)を拠点とする大内氏と、出雲を中心に勢力を持つ尼子氏による、二強体制が定着していたからだ。
一時的な勢力の優劣はあっても、全体で見ればその力関係は互角に近く、中国地方の覇者となるのは大内か尼子のいずれかと思われた。

ところが、そこに思いもよらぬ第三勢力が現れる。
安芸国(広島県)の小国人であった毛利氏が、大内・尼子の勢力争いの隙を突いて大きく伸長し、ついには両者を圧倒して中国地方の支配者となるに至ったのだ。
まず1557年(弘治3年)に大内氏が滅亡し、続いて尼子氏も窮地に陥った。1566年(永禄9年)、本拠地である月山富田城(島根県安来市)が毛利氏に攻め落とされ、時の当主・尼子義久が降伏。戦国大名としての尼子氏はここで滅亡した。そして、この戦いのなかで亀井氏当主である亀井秀綱が討ち死にし、跡を継ぐべきものもいなくなった。
主家とともに亀井氏は滅んだのである――。

しかし、亀井氏をめぐる物語はここでは終わらない。そのきっかけは、尼子氏滅亡後、その旧臣たちが出家していた尼子勝久(1553―78)を還俗させ、これを旗印として尼子再興の軍を挙げたことだった。
その中心人物・山中幸盛(?―1578。鹿介の通称で有名)は亀井秀綱が遺した二人の娘のうち一人を自らの妻とし、もう一人を湯茲矩(とう・これのり、1557―1612)という尼子旧臣の若者に娶(めあわ)せた。
そして、打ち続く毛利氏との戦いのなかで、この湯茲矩に亀井家を継ぐように命じたのである。のちの近世大名、津和野藩・亀井家はこの瞬間から出発したのだといってよい。

この時弱冠18歳の若武者であった湯(亀井)茲矩は、幸盛と同じ尼子旧臣の生まれである。尼子滅亡とともに行き場所を失った彼は、やがて出雲・伊予(愛媛県)・因幡(鳥取県)と放浪した後に幸盛のもとへ身を寄せた。
幸盛が茲矩を見出すにあたっては、大きな事件が起きている。以下、江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』より逸話を引こう。

ある時、以前より幸盛と親しく付き合っていた矢部行綱という国人が、幸盛を招くということがあった。この時、茲矩にはなにか虫の知らせでもあったのだろうか、幸盛に代わって従者三、四人を引き連れ、矢部の館に赴いた。
果たせるかな、矢部には「幸盛を誘き寄せ、殺害せん」という思惑があった。そもそも蟷螂の斧を振るうが如き尼子再興軍の立場を思えば、相手が旧友の幸盛であってもこれを討って毛利氏の歓心を買おうとするのは当然のことといえよう。故あらば裏切り、己の一族と領地を守るのは戦国の世の習いだった。
だが、茲矩は行綱と向き合うやいなや、その思惑を見破る。そして小刀を抜いて行綱の首を落とすと、わっと押し寄せる行綱の家臣たち二十人余りを向こうに回しての大立ち回りを演じ、ついに無傷で帰った、というのである。

尼子再興に努めた旧臣といえば、幸盛を筆頭とする「尼子十勇士」の名が高い。しかし、所詮は滅亡した大名家の残党で、幸盛らは人手不足であるから、優れた人材は喉から手が出るほど欲しかったはずだ。
そのなかで茲矩の才知と度胸を見出した幸盛の喜びと驚きは容易に想像できる。この若く将来有望な若武者を手元に置いておくため、幸盛は己の義妹(養女にもしていた)と結婚させることで旧尼子重臣の名を継承させ、身内に取り込もうとしたのだ。

尼子再興軍の事情

ここで注目すべきは、茲矩や幸盛ら尼子再興軍はかならずしも独立した勢力として毛利氏と戦っていたわけではなかった、ということだ。その裏には常に「毛利氏を攻撃し、あるいは牽制するために尼子再興軍を利用したい」と考える周辺大勢力の思惑があったのである。
このようなあり方は、本書で定義する境界大名において非常に頻繁に見られるものだ。強大な勢力を持つ戦国大名は、しばしば敵対勢力の前に置いた盾であるかのように、また地の利を得ない地域を平定するための尖兵として、彼ら境界大名を用いたのである。

尼子再興軍はまず1569年(永禄12年)に隠岐国(島根県)から出雲国へ入り、月山富田城の奪還を試みた。
旧尼子家臣団に毛利を裏切るものが多く出て当初は戦いを優勢に進めたものの、富田城を落とせぬまま毛利の援軍が到着してしまったことで形勢逆転。衆寡敵せず、1571年(元亀2年)に出雲国より撤退することになった。
続いて1574年(天正2年)、今度は因幡国を攻めるも、やはり毛利氏に敗れ、2年後に引き上げざるを得なくなる。なお、茲矩が尼子再興軍に加わり、亀井氏を継承したのはこの戦いの頃のことである。

この2度の戦いにおいて、尼子再興軍の背後にいたのは山名氏だった。
山名といえば、戦国乱世の端緒を作った「応仁の乱」において、一方の主役を演じた山名宗全の名で覚えておられる方も多いであろう。室町幕府において四職(軍事実務を担当する侍所の長官を務める家格)の一つに数えられる名家であり、最盛期には全国の6分の1にあたる11カ国の守護職を得て「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれたほどである。

しかし、戦国乱世が始まると、中国地方全体に広がっていたその勢力も次第に削れて衰退の一途をたどってしまう。
先述した大内・尼子らは山名を圧迫する形で中国地方の二大勢力となっていったわけで、その彼らも新興勢力である毛利に敗れて滅ぶのだから、戦国の栄枯盛衰ここにあり、というべきか。
ともあれ、永禄年間(1558―70)の終わりから天正年間(1573―92)初めのこの頃は、山名氏はまだ但馬(兵庫県)・因幡に侮れない力を残していた。そのなかで、1度目の際には但馬の山名祐豊が、3度目の際には因幡の山名豊国が、それぞれ尼子再興軍に力を貸した。

もとを正せば、山名・尼子の両家は仇敵同士である。それでも幸盛ら尼子再興軍は山名の手を借り、山名もまた尼子再興軍に援助をした。これが戦国の世の習いというものであり、それほどまでに毛利の存在が脅威だった、ということでもあるのだ。
こうした恩讐を超えての協力関係は、敵が弱まればそれまでである。尼子再興軍が出雲をしっかりと確保し、毛利の影響力を中国地方東部から排除したならば、今度は尼子・山名の争いが再燃したに違いない。それは両者ともに手を結んだ時点で織り込み済みであったろうが、結局のところそうなる前に尼子再興軍は撤退せざるを得なくなってしまった。

いやそれどころか、2度目の挑戦において尼子再興軍が劣勢に追い込まれたのは、毛利氏の外交戦術によって山名豊国が毛利方へ裏切ったことが大きかったのである。まったく、戦国乱世において周辺勢力ほど信じられないものはない。
こうして、尼子再興軍は2度に渡って毛利に挑むも、2度ともに敗れることになったのだった。

尼子再興軍の最期

捨てる神あれば拾う神ありとはよくいったものだ。1577年(天正5年)、尼子再興軍は新たなる援助者を得る。その援助者こそ、中央で急激に勢力を伸ばしていた織田信長であった。
織田氏の支配に入った茲矩・幸盛らは明智光秀の指揮下に入り、大和国(奈良県)の松永久秀攻めで活躍して大いにその名を上げている。

さて、天正5年の織田氏といえば、浅井・朝倉といった仇敵をすでに打倒し、かつて傀儡とした将軍足利義昭を追放して中央の地ならしを終えて、いよいよ各地方にその触手を伸ばそうという頃合いである。
当主である信長は中央に睨みを利かせ、大きな権限を与えられた重臣たちが方面軍を率いて各地方を攻略した。そして、中国地方に送り込まれたのが羽柴(豊臣)秀吉で、天正5年にはすでに播磨(兵庫県)の姫路城に入り、この地域の切り崩しにとりかかっていた。

もちろん、この機を幸盛たちが逃すはずもない。翌年、信長に出陣の許しを得た尼子再興軍は秀吉麾下として播磨に入り、すでに秀吉が攻め落としていた上月城(兵庫県佐用町)を根拠地として借り受けた。この城に尼子勝久を城主として立て、3度目の対毛利戦を開始する。
だが、このことは毛利の注目を集めすぎてしまったらしい。毛利としては「かつて中国地方の2強として君臨した尼子の名が大義名分として使用され、そこに織田の軍事力が加わると危険である」という読みもあったのだろう。結果、上月城はすぐさま毛利の大軍に包囲された。秀吉も慌てて援軍を送るが、毛利軍の囲みは固く、なかなか突破することができない。

この時、茲矩は城内にはいなかった。秀吉に従い、城外の援軍側にいた。養父や仲間たちが危機に陥っているにもかかわらず、救援の手を差し伸べることができない茲矩の苦悩はいかばかりであっただろうか。
しかも、悲劇はこれにとどまらない。秀吉のもとに、中央の信長から撤退命令が出たのである。これは上月城に籠る尼子再興軍を見捨てよ、という意図にほかならない。
もちろん、この命令にもちゃんと理由がある。ちょうどこの頃、秀吉の播磨支配には別の問題があった。この年の2月、播磨国の有力国人である別所氏が、一度は織田氏に恭順したにもかかわらず、反旗を翻していたのである。

秀吉は当初は別所氏の居城・三木城(兵庫県三木市)攻めに力を注いでいたが、上月城が取り囲まれるや転じてその救援に駆けつけていた。尼子再興軍を見捨てれば「織田は薄情だ」と風間が広まり、中国地方への侵攻に不利になると見たからだろう。
だが、信長はそれを認めなかった。別所氏が長く残ることによる危険と、尼子再興軍を救わないことによる危険を天粋にかけて、前者を重視したのかもしれない。あるいは、上月城を救うことは無理だと判断したのかもしれない。どちらにせよ、秀吉は主君の命令に逆らうことはできなかった。

この時、秀吉はわざわざ単身中央に舞い戻って信長の説得を試み、失敗している。その誠意は茲矩の心をわずかに慰めたかもしれないが、仲間を目の前でみすみす殺される絶望を埋めるほどのものであったはずがない。
以後、上月城を襲った運命について、「亀井家寄稿本」をもとに紹介する。

秀吉は主命に最後の抵抗を画策した。茲矩を城内に送り込み、籠城する幸盛らに「城を捨てて脱出し、合流してくれ」と伝言させたのである。
だが、幸盛は首を縦に振らなかった。毛利の大軍を前に、とてもそのようなことがかなうとは思えない、というのである。その代わり、信長に「茲矩に出雲国を与えてくださるよう」伝言を返した。秀吉は涙ながらに約束し、彼らが撤退した後に尼子勝久は切腹、山中幸盛も謀殺された、と伝わる――。

さすがにこの伝言の一件はあまりにもできすぎた話で、創作の疑いが強い。
しかし、尼子再興軍が信長の判断をきっかけとして旗印と中心人物を失い、尼子氏の命脈が途切れたのは事実である。2つの巨大勢力に挟まれた境界大名の、あまりにも哀れな結末といえよう。

出雲奪還の宿願を捨てて

尼子再興の宿願は失われても、残された旧臣たちは生きていかなければならない。彼らの多くは茲矩のもとに集まり、秀吉鹿下として毛利氏と戦い続けることになった。
因幡に入った茲矩は秀吉が攻め落とした鹿野城(鳥取市)を預けられた。その後、毛利一族の吉川経家に攻められるも、多勢の敵に対して霧中早朝に奇襲を行い、これを撃退することに成功している。

この功によって茲矩は鹿野城主となり、因幡国気多郡に1万3500石の所領を与えられ、また「出雲一国を与える」という信長の朱印状も授かった。まだ出雲は毛利の勢力下にあり、これは空手形にすぎない。それでも織田軍の勢いは凄まじく、出雲を攻め落として茲矩がその国主となる日は決して遠くないように思われた。

ところが、事態はまたしても大きく展開する。1582年(天正10年)、京の本能寺にて織田信長が重臣の明智光秀に討たれたのである。
秀吉はすぐさま取って返して主君の仇を討たんと決意したが、そのためには日前の敵である毛利氏との和解が必要だ。だが、それをなせば出雲を茲矩の手に戻すことはかなわなくなる――。

秀吉にとって信長の朱印状を無に帰すことは難しくないが、それによって茲矩をはじめとする尼子旧臣の信頼を失うのも躊躇われたに違いない。
ところが、茲矩は驚くべきことを口にした。「出雲を授かることができないのであれば、ほかに欲しいのは琉球(沖縄県)だけです。これを討って己の所領としたいと思いますので、是非お許しください」というのである。これに秀吉は大いに感じ入って、腰に差した金団扇に己の名と「亀井琉球守殿」を書きつけ、渡して証としたのだった(『寛政重修諸家譜』)。

また、のちに秀吉が朝鮮出兵にあたって「わしは将来明国(中国)を征服するつもりだが、お主はどこがほしいか」といったのに答えて、茲矩は「であれば台州(浙江省台州府のこととも、台湾のこととも)が欲しいです」と答えたともいう。

その後の茲矩と亀井氏

ここに、境界大名としての亀井茲矩の物語は終わる。豊臣政権と毛利氏の関係は蜜月関係というが相応しく、茲矩が両者の板挟みになるようなことはなかったからだ。
しかし、茲矩の活躍が終わったわけではない。豊臣政権においては九州攻め・朝鮮出兵に参加し、少なからず功績を上げた。また、天下分け目の関ヶ原合戦においては娘を徳川家康の家臣・松平忠清に嫁入りさせることで東軍に与した――と明治に記された亀井家の家記『道月余影(どうげつよえい)』には記されているが、これには怪しいところが多い。

同じく関ヶ原の戦いに参加した島津家臣の文書『山田有栄覚書(やまだありながおぼえがき)』によると、もともと亀井の軍勢は島津と並んで西軍に属していたが、合戦のなかで東軍に裏切ったのだ、という。こちらの方がより信憑性が高く、また戦国乱世を厳しい情勢のなかで生き抜いた歴戦の大名らしい判断といっていいのではないか。
どちらにせよ茲矩は大幅の加増を受け、3万8千石の大名となって江戸時代を迎えることになる。

天下泰平の世において彼の目はかつてと同じく海外に向けられた。しかし、琉球は1609年(慶長14年)に島津氏が占領してしまったので、手出しができない。
そこで亀井氏は異国との貿易に踏み出した。江戸幕府の許可――朱印状を受けたうえでマカオやタイなどに船を送り込み、富を得たのである。地の利があって南蛮貿易の経験豊富な九州の大名以外がこのような試みに出るのは稀有なことであり、茲矩の特異性がうかがわれる。

慶長17年、茲矩はこの世を去った。その後、2代目の政矩の時に石見国(島根県)津和野藩4万3千石に転封を受け、以後江戸時代を通して亀井家は命脈を保っていくことになる。
幕末期は藩政改革を成功させ、洋式の銃や大砲を備えて軍事面でも刷新を図った。また、戦国時代以来の因縁がある毛利氏の長州藩を近隣に持ちながら交流が深く、2度に渡る幕府の長州征討においては幕府より出兵を命じられながら戦闘は行わなかった。
さらに幕末期に国学が盛んになったことから朝廷よりの思想が強まり、戊辰戦争においては新政府側についた。

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