伊達政宗といえばいわずと知れた「奥州の独眼龍」であり、若くして父・伊達輝宗から家督を継承して東北の覇者へ上り詰めた男である。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった戦国末期の英雄たちと比べても遅く生まれたため、「もう少し早く生まれていたなら、もしかして彼が天下を……?」と惜しむ声は強い。
しかし、一方で政宗には若さゆえの過ちでピンチを招き、そこを家臣たちに救われたことも多かったようだ。
1585年(天正5年)、蘆名・佐竹ら周辺諸大名の連合軍と戦った人取橋の戦いなどはその際たるものである。
きっかけは父・輝宗の死だった。
和平交渉中だった畠山氏によって誘拐され、追撃のさなかに死んでしまったのである。
これを受けて政宗は畠山氏の二本松城を攻撃したものの、攻めあぐねていたところに連合軍が接近してきたため、こちらに対処せざるを得なくなった。
両軍が激突した主戦場になったのが人取橋付近であるため、こう呼ばれたのである。
この戦いにおいて、政宗は圧倒的に不利な状態にあった。
3万余の連合軍に対して、伊達軍は7000に過ぎなかったからだ。
たちまち劣勢に追い込まれる政宗だったが、2人の家臣の勇敢な振る舞いが彼を救った。
1人目は鬼庭左月(良直)である。
一時撤退する伊達軍の殿に立ったこの老将は、鎧もつけない姿で見事な奮戦を見せた。
人取橋を超えて連合軍への突撃を敢行し、政宗らが引き上げる貴重な時間を稼いだのである。
もちろん、こんな無茶をすれば本人の命があるはずもない。
彼は75年の生涯の幕を壮絶な討ち死にで閉じることとなったのだった。
もう一人は政宗の片腕として名高い片倉小十郎(景綱)だ。
連合軍の攻撃が政宗の本陣にまで達し、総大将までが戦わなければならないような状況に陥ったとき、彼は政宗に「小十郎」と呼びかけた、と伝わる。
すなわち、敵に対して「自分が政宗でそこにいるのは小十郎だ、だから自分こそを攻撃するべきだ」というアピールをし、即席の影武者となることで主君を救ったのだ。
彼らの献身によって政宗は命を広い、また連合軍が突如撤退したことで体制を整えるチャンスを得る。
そうして奥州の覇者となるべく新たな戦いに挑むことになるのだった。