本堂の屋根瓦の葺き替え工事などのため拝観休止中だった臨済宗大徳寺の塔頭・高桐院が、ようやく11月10日から一般拝観が再開されたので、さっそく訪ねてきました。
ここは「そうだ 京都、行こう。」のポスターにもなった赤い絨毯で有名なお寺ですので、もう少し紅葉が進んだら大勢の観光客が参拝されると思います。
この参道は左右を楓に囲まれているため「楓の庭」と呼ばれているのですが、細い参道の両側が紅葉の落ち葉で真っ赤に染まります。
その先もじつに趣のある素敵な参道になっています。
高桐院は細川家の菩提寺
大徳寺の塔頭である高桐院は細川忠興(三斎)が建立した細川氏の菩提寺です。
江戸時代初期の武将で茶人としても有名で「利休七哲」のひとりにも数えられる忠興ゆかりの寺院だけあって、書院は利休の邸宅を移築したものといわれています。
境内はすべて撮影オッケーなのもうれしいですね。
この客殿南庭(本堂前庭)もあと少しで真っ赤になります。
室中にある木像はちょっと暗いのですが、中央に開祖である玉甫紹琮(細川幽斎の弟)、左側に忠興のものがあります。
忠興の木像はちょっと小さめでした。
これがかつて聚楽第にあったという利休邸を移築した書院「意北軒」です。利休切腹後に取り壊されようとしていたのを玉甫紹琮が移築したそうですね。
襖絵は狩野探幽の弟で宗家を継いだ狩野安信が描いたとされる水墨画です。
さらに書院につづく茶室「松向軒」は1628年(寛永5年)に忠興自ら建立したもので、忠興好みの二帖台目で、三帖の水屋がつき、茶室には珍しい黒壁を使うなど、壁や天井にも趣向が凝らされていて有名です。
この茶室はもともと北野大茶会で使われたとも伝わるそうですが、高桐院でいただいたパンフレットにはその記載がないので(たんに「三斎公の手で建立」とだけある)真偽は不明です。
蒲落ち天井(がまおちてんじょう)や網代天井(あじろてんじょう)など、屋根がすべてちがうのが洒落てますよね。
茶室につづく露地(茶庭)も素敵です。
庭の奥には細川家歴代の墓
境内には忠興とガラシャの墓のほか、細川幽斎はじめ一族の墓があります。
墓所へ通じる門には九曜紋とともに五七の桐門がありますね。
忠興とガラシャの墓石に使われている石灯籠はもともとは千利休が愛用していた灯篭でした。豊臣秀吉もこれをほしがったそうですが、利休はわざと欠けさせて秀吉に渡さなかったという逸話があります。
その後、利休が切腹の際に忠興に贈られました。
忠興以外の細川家当主の墓はこちら。
高桐院には歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国の墓と、その阿国の恋人とも夫ともいわれる名古屋山三郎の墓もあるのですが、現在は立入禁止だそうです。
墓所の手前には三斎井戸と呼ばれる井戸がありました。
また庭にある袈裟型降り蹲踞(けさがたおりつくばい)は加藤清正が朝鮮出兵の際に、朝鮮王城の羅生門礎石を持ち帰り、細川忠興に贈ったものを利用したと伝わります。
忠興はこのつくばいをとても気に入ったそうで、参勤交代の際にも持ち歩いていたといわれています。
苔がいい感じですね。
先日訪問した総見院の掘り抜き井戸も清正が朝鮮から持ち帰った石でつくったものと案内されていましたし、黄梅院にも清正が持ち帰った石がありました。これは日本に帰国する際は(多くの兵が戦死したために)船が軽くなってしまったので、大量の石を積んで持ち帰ったことが原因です。
軒丸瓦などに細川家の家紋「九曜紋」が入っています。
竹林のある片隅にひっそりとたたずむ高桐院は庭、茶室、水墨画と見どころ満載のお寺です。
紅葉のときだけじゃなく、雪の日もすごく美しいみたいなのでいってみたいですね。
御朱印には九曜紋なし
御朱印をいただきました(300円です)。
九曜紋が入ってるかなと思ったのですが、入ってませんでした。