関ヶ原の戦いの前哨戦に、まさにドラマチックといえる戦いがある。
徳川家康重臣・鳥居元忠による伏見城籠城戦だ。
元忠は家康が今川義元の人質になったときから仕えており、家康の三河統一などの戦いで活躍している。
家康が関東に移封する際には下総国に4万石が与えられた。
先鋒として情報収集を行ったりもしており、頼れる家臣だったようだ。
そんな元忠は関ヶ原の戦いの際、伏見城に置かれた。
伏見城は豊臣秀吉が隠居する際に築いた城で、彼が亡くなった場所でもある。
その後は豊臣政権の権力を握る家康の手に渡っていた。
家康は三成を戦いの舞台におびき寄せる作戦として、会津征伐を実行する。
家康が関東を空けると、三成は思惑どおりに出兵。
1600年(慶長5年)7月19日、伏見城は西軍の大軍に囲まれてしまった。
伏見城に残された兵力はわずか1800。
差は歴然であった。
家康もこの事態を予想していたはずで、元忠はいわば捨て駒となったのである。
それでも元忠は総大将として8月1日までの12日間、城に立て籠もり壮絶な戦いを繰り広げた。
元々堅固な城だったこともあって元忠たちは粘りに粘ったが、やはり数には勝てず次第に押されてしまい、城内の裏切り者によって放火されたことをきっかけに敵がなだれこんできてしまう。
こうなれば玉砕覚悟と元忠は戦ったが、最期は顔見知りだったという雑賀孫一に討ち取られた。
この戦いで伏見城の天井に血がついたとされており、激戦が窺える。
元忠は家康の重臣として、立派に散っていったといえよう。
家康は元忠の犠牲を乗り越えて三成に勝利し、江戸幕府を開くことになる。