織田信長の重臣・柴田勝家は『瓶割り柴田』という異名をもっている。
その名がつくことになった戦いが、南近江長光寺城籠城戦だ。
1570年(元亀6年)、六角氏が信長の上洛戦によって奪われていた長光寺城を奪い返そうと奮起した。
長光寺城には勝家が入っており、六角氏は城を落とすべく、水源を断つ作戦に出ることに。
南近江は元々が六角氏の所領だったのだから、城の周辺住民は六角氏と旧知の間柄であり、水源の場所を教えてくれた。
こうして長光寺城内は水不足になってしまったのだ。
不利な状況に追いやられてしまった勝家だったが、諦めることはなかった。
六角勢の軍師が「城を開けるように」と通告に訪れた際に、勝家は軍師が手洗いに使った水の残りを捨てさせている。
軍師は「水が不足しているはずでは……」と困惑したという。
勝家は自分の足元を見せなかったのだ。
しかし実際には、この時城に残っていた水はたったの瓶3つ分。
このままだと水はなくなり、敗北は目に見えている。
そこで勝家は城の兵たちを集め、「このまま城に籠り続けて枯れ果てるよりも、城から出て六角と戦おうぞ!」と鼓舞し、残りの水を飲ませた。
そして、瓶を割ってしまったのである。
もう後戻りはできない、まさに背水の陣だ。
勝家の気迫により奮起した兵たちは、果敢に六角勢に突撃。
不利な状況にも関わらず圧勝した。
兵力やその場の状況においての戦力差はなかなか埋まるものではないが、時に気合がそれらをひっくり返すこともあると証明する戦いだったといえよう。