秀吉子飼いの武将であり、「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍」のひとりに数えられる、加藤清正は猛将のイメージが強いですが、一方で築城の名手としても知られています。
加藤清正が手がけた城はどのくらいあるのでしょうか。『日本の名城がわかる本 (リイド文庫)』などを参考に、ちょっと調べてみました。
加藤清正がかかわったとされる城
- 佐敷城(1589年、天正17年)※近世城郭に改修
- 熊本城(1591年、天正19年)※秀吉から肥後北半国19万5000石を与えられ、千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城を築く
- 名護屋城(1591年、天正19年)※秀吉の命により、寺沢広高とともに普請奉行を務める
- 西生浦倭城(ソセンポわじょう)(1593年、文禄元年)※朝鮮出兵の際の居城として築城
- 機張倭城(キジャンわじょう)(1595年、文禄4年)※改修
- 蔚山倭城(ウルサンわじょう)(1597年、慶長2年)※縄張り
- 宇土城(1600年、慶長5年)※自らの隠居城にするために主曲輪を改修
- 府内城(1601年、慶長6年)※竹中重利による増築を手伝う
- 江戸城(1606年、慶長11年)※富士見櫓下の石垣
- 名古屋城(1610年、慶長15年)※天守台の石垣
- 麦島城(八代城)(1612年、慶長17年)※改修
- 玖島城(1614年、慶長19年)※大村純頼が拡張・改修する際に設計指導
清正の城の特徴
加藤清正が築いた城の特徴はふたつあって、ひとつは石垣、もうひとつは籠城対策です。
熊本城の石垣は天下一流と名をはせた、独特の弧を描く「扇の勾配」です。
この石垣は、地面付近は勾配がゆるく(だいたい30度くらい)、上にいくにしたがって勾配がきつくなる独特なもので、「武者返し(むしゃがえし)」や「清正流石組」などと呼ばれています。
これは清正が近江から熊本まで連れてきた特殊技術を持つ石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって築かれました。
また清正には土木技術にかんして有能な家臣がいました。それがふたりの家老、飯田覚兵衛(飯田直景)と森本儀太夫(森本一久)で、飯田覚兵衛は熊本城の「飯田丸」として名前も残っています。
こうした加藤家の築城技術、土木技術が重宝され、府内城の改築を手伝ったり、天下普請で江戸城や名古屋城の石垣づくりに貢献しています。
もうひとつの籠城対策は、慶長の役で明・朝鮮連合軍との間でおこなわれた「蔚山城の戦い」で、食料が尽きてしまうほどの激しい籠城戦を経験したことから、城内には地下水をくみ上げられる井戸を数多く掘り(およそ120ヶ所)、非常時の食糧としてレンコンが栽培され、梅、銀杏が植えられていました。
熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれていますが、それは本丸にあるこの大銀杏(おおいちょう)に由来します。
ちなみにこの大銀杏は雄の木で、残念ながら実はつけません(よって食料としては使えませんでした)。
また楠木は根から油が採取できることを考えて植樹したといわれています。
さらに畳には芋茎(ずいき)を入れて、壁の中には干瓢(かんぴょう)を塗りこんで、いざというときに食べられるようにするほどの徹底ぶりでした。
こうした籠城対策が熊本城が最強の城と呼ばれる理由です。
西南戦争(1877年、明治10年)で、熊本城に立て篭もった政府軍は、西郷隆盛が率いる反乱軍の執拗な攻撃を52日間も耐え抜きました。けっきょく攻めきれず退却を余儀なくされた西郷が残した「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」という言葉は有名です。
なお、韓国の南東部に位置する慶尚南道(キョンサンナムド、けいしょうなんどう)には、現在も機張城と西生浦城の石垣がそのまま残ってるそうです。いつか見にいってみたいものですね。
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