さて、この「築城の名手」シリーズも最終回。三大築城名人、最後のひとりは黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)です。
黒田官兵衛といえば豊臣秀吉の軍師であり、竹中半兵衛とあわせて「両兵衛(二兵衛)」と呼ばれていますが、同時に彼はこれまでに紹介した藤堂高虎や加藤清正と並んで「築城の名手」としても知られており、居住した中津城や福岡城のほか、以下のお城について縄張りや助言を行ってかかわったとされています。
黒田官兵衛がかかわったとされる城
- 妻鹿城(1577年、天正5年)※秀吉に姫路城を譲った後に、自らの居城として修復
- 篠ノ丸城(1580年、天正8年)※信長から山崎1万石を与えられ、自らの居城として修復
- 大坂城(1583年、天正11年)※秀吉の命により縄張り
- 中津城(1587年、天正15年)※秀吉から豊前12万石を与えられ、城を築く
- 高松城(1588年、天正16年)※縄張り
- 広島城(1589年、天正17年)※縄張り
- 名護屋城(1591年、天正19年)※築城総奉行として縄張りを担当
- 梁山倭城(ヤンサンわじょう)(1597年、慶長2年)※朝鮮出兵の際の居城として築城
- 福岡城(1601年、慶長6年)※関ケ原の戦いの功績により長政が家康から筑前52万石への加増移封を受け、城を築く
姫路城は黒田官兵衛が生まれた城として知られていますが、もちろん現在の姫路城ではなく、その近くにあったちいさな砦のような城でした。
1580年、羽柴秀吉の中国攻めに際して官兵衛が姫路城を献上したことを受けて、秀吉は当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに3層の天守を建築して近世城郭として姫路城を大改修します。おそらくこの改修に官兵衛もかかわっていると思いますが、どのようにかかわったかはわかりません。
(現在の姫路城は、さらにそれを池田輝政が江戸時代に大改修して築かれたものです)
そして姫路城を秀吉にあげちゃったので、官兵衛自身は父親の黒田職隆と一緒に妻鹿城(めがじょう)に移ります。
この妻鹿城も姫路市内にある山城で、古くは1333年(元弘3年)に『太平記』にも登場する妻鹿孫三郎長宗が築いた城だそうです。別名として「国府山城・功山城・袴垂城」といろんな名前があります。
ただし1585年に職隆が没した後、妻鹿城は廃城となったので、5年ほどしかいなかったことになりますね。
(おそらく官兵衛自身はほとんど妻鹿城にはいなかったでしょう)
官兵衛の城の特徴
また官兵衛はその才能がありすぎたゆえに、秀吉にも家康にもおそれられていました。
そのためたとえば晩年に築いた福岡城は、徳川幕府への遠慮から天守は造築されなかった(天守台のみ)とされています。これは1646年(正保3年)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』に天守が描かれていないことが根拠だったのですが、最近になって様相が変わってきました。
当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた、1620年(元和6年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と書いていて、天守が存在していた可能性も出てきました。
このように新しい資料が発見されたりすることで、歴史の謎がひとつずつ解明されていくというのはほんとうに楽しみですね。今後の調査に期待しましょう。
ちなみにその福岡城ですが、同じく「築城の名人」と謳われる加藤清正が「自分の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちない」と賞賛しています。
その理由は、本土から攻めてくる幕府軍に対する防壁として、博多に面した那珂川に1.5キロにおよぶ高石垣が築かれており、川の上流にはいつでも使えるように材木が貯蔵されていたように、いつ戦になってもいいように万全の備えがなされていたことによります。
このように官兵衛のつくった城はとにかく実戦的なんですね。
藤堂高虎や加藤清正のように高い石垣を誇るわけではないのですが、さすが天下の名軍師だけあって緻密に考えぬかれた築城術です。
また、名護屋城の縄張りは黒田官兵衛、石垣(普請)工事は加藤清正(ほかに黒田長政・小西行長)ということで、三名人のうちふたりの名前が秀吉の「唐入り」の本気度が伺える陣容ですね。
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