「大阪城は誰が建てたか知ってる?」
「豊臣秀吉!」
「残念ー。ハズレ。大工さんやで」
というのは関西の小学生ではお約束になっているやり取りですが、じっさいのところは大工が建てたわけです。
安土城を建てたのは映画『火天の城』で有名になった岡部又右衛門ですが(子の岡部以俊とともに大工棟梁をつとめた)、秀吉が築いた初代大坂城(豊臣大坂城)の棟梁を誰がつとめたのかはよくわかってないそうです。
のちに徳川家康のお抱え城大工として多くの城を築くことになる中井正清の父、中井正吉が片桐且元に請われて大坂城の築城に参加したという記録はあるそうですが、どういう立場での参加だったのかはわかりません。
(おそらくは棟梁もしくはそれに準じた立場だと思うのですが)
なお、豊臣大坂城は「大坂の陣」で焼失し、そのあとに徳川家によってあらたに大坂城が築かれますが、この棟梁をつとめたのは中井正清の長男で、正吉の孫にあたる中井正侶(まさとも)です。
岡部又右衛門はもともと熱田神宮の宮大工、中井正吉も法隆寺の宮大工というように、安土桃山時代にお城に天守が築かれるようになると、宮大工が登用されました。
その理由は、当時の日本で高層建築物(もちろん木造)は五重塔などに代表される、寺院の塔や社殿くらいでしたから、天守の造営において宮大工の技術が必要だったからです。
その影響として、寺院建築特有の装飾である華頭窓や唐破風などが天守にもあります。
棟梁は城の構造のすべてを知っている重要な存在ですから、待遇も良かったようですね。
中井正清は従四位下・大和守の官位をもらい、1000石を知行していたそうです。
ちなみに現在の大阪城(大坂城ではなく大「阪」城)を施工したのは大林組です。
提唱者は1928年(昭和3年)当時の大阪市長である關一氏で、設計は大阪市土木局建築課の古川重春氏、意匠は天沼俊一氏、構造は波江悌夫氏と片岡安氏が担当しています。
(詳しくはこちら)
さらに余談ですが、秀吉が「豊臣」姓を賜ったのは1586年(天正14年)9月9日のことで、大坂城(豊臣大坂城)の着工は1583年(天正11年)、天守竣工も1585年(天正13年)ですから、どちらにしても「豊臣秀吉」という答えは不正解となります。答えるなら「羽柴秀吉」でしょうね。
なお、秀吉は「羽柴」から「豊臣」に改めたのではありません。
「羽柴」は名字(苗字)であり、「豊臣」は氏(本姓)であって、これは武田氏が源氏(清和源氏)、北条氏が平氏(桓武平氏)のように名字と氏は別のものです。
もともと秀吉は信長にならって平氏を称していたのを、1585年(天正13年)7月、関白就任にあたり、前関白・近衛前久の猶子となって藤原氏に改め、さらに豊臣氏に改めています。
つまり「羽柴」から「豊臣」に改めたのではなく、「藤原」から「豊臣」に改めたというわけです。
この豊臣氏は羽柴秀吉があらたに創始した氏であり、その後、明治時代に「氏」制度が廃止されるまで、あらたな氏は創設されなかったことから、最後に誕生した氏ということになります。