現在ある大坂城の天守(大阪城天守閣)は1931年(昭和6年)に竣工した復興天守です。
陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って、1928年(昭和3年)に当時の關一(せきはじめ)大阪市長によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工しました。
關氏は「シティプランニング」という外来語に対して「都市計画」という訳をあてた人物で、この大阪城天守閣の再建も市長として実行した都市政策のひとつです。
なお、このとき市民からの寄付が殺到し、7万8250余件の申し込みがあり、およそ半年で目標額の150万円(現在の貨幣価値に換算すると600億から700億円に相当)が集まったそうです。
当時の市職員の給料が高くても100円という時代のことですから、いかに市民が熱望していたかということがよくわかります。
最初の復興天守
また、大阪城天守閣は昭和以降に全国各地で建てられた最初の復興天守です。
(模擬天守まで含めると1928年の洲本城天守閣が初)
大阪城天守閣の高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)で、徳川時代の大坂城(徳川大坂城)の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法を用いて建てられました。
建物の外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に設計されています。施工は大林組が担当しました。
天守復興プロジェクトの様子は設計を担当した、当時大阪市土木局建築課の古川重春氏の著書『錦城復興記』に記されています(残念ながら絶版となっています)。
大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なりますが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁を用いつつも、最上階にあたる5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵が描かれています。
この意匠における折衷案の採用に対しては諸々の議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もあります。
阪神・淡路大震災後の1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われました。
このときに建物全体に改修の手が加えられ、耐震補強に加えて、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われました。
また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられています。
さらに、2007年(平成19年)の外壁の塗り替えの際には、5層目の塗装がより豊臣時代に近いデザインに改められました。
天守内部は博物館「大阪城天守閣」となっており、豊臣時代の展示や大坂の陣を紹介する展示があります。
もっとも長命の天守
豊臣時代が32年、徳川時代が36年といずれも天守が短期間のうちに焼失したのに比べ、昭和に復興されたこの天守はもっとも長命の天守となっています。
1997年(平成9年)9月3日には国の登録有形文化財に登録されました。