大坂城の天守は現在の復興天守を含めて3度造営されています。
「大坂の陣」の際に豊臣時代の天守をはじめとした建造物はすべて灰燼に帰したため、1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しました。
このとき築かれた大坂城のことを「徳川大坂城」と呼び、また天守は「元和期天守」とも呼ばれています。
元和期天守は、江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同じような配置で建てられたと見られています。
大天守台の南側に小天守台が設けられていますが、そこに小天守は造られず天守曲輪のような状態で、天守へは本丸御殿から二階廊下を通って入るようになっていました。
なおこの二階廊下は現在のエレベータの位置に架けられていたそうです。
建物は独立式層塔型5重6階(地上5階、地下1階)で、江戸城の初代天守を細身にしたような外観となっています。
壁面は白漆喰塗籠だったとみられており、最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、その他の屋根は本瓦葺だったと考えられています。
天守の高さは天守台を含めて58.32メートルで、外観が酷似していることなどから江戸城初代天守の縮小移築との説もあります。
(ただし後述のとおり、天守の外観は異なっている可能性があります)
現存する天守の図面には、内閣文庫所蔵の『大坂御城御天守図』(内閣指図)と、大坂願生寺所蔵の『大坂御天守指図』(願生寺指図)がありますが、それぞれに描かれた天守の姿は相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は江戸城天守とほぼ同じ破風の配置となっています。