大阪城の二の丸、内堀のそばに蓮如上人袈裟懸けの松があります。
蓮如上人というのは、いわゆる本願寺蓮如のことで、1496年(明応5年)この場所に石山御坊(のちの石山本願寺)を建立しました。
ここに蓮如上人が袈裟をかけた松があったと伝えられ、その切り株だけが残っていますが、そもそも現在の大阪城公園は豊臣時代の大坂城の上に徳川幕府が盛土をした地表面が基準となっているので、現在の地表に切り株があるはずがないのです。
(もしあるとすれば秀吉時代の石垣と同じように地中深くに眠っているはず)
とはいえ、このあたりが石山本願寺だったことはまちがいありません。
ここから桜門に向かって歩き、橋を通りすぎて反対側に歩いていくと、「石山本願寺推定地」の石碑があります。
蓮如上人袈裟懸の松
本願寺第八代蓮如上人は明応五年九月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し明応八年二月まで居住す。天文元年八月第十代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。永禄十三年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。而して十一年間攻防の末天正八年三月勅によって和議なる。天正十一年豊臣秀吉大坂城を築く。のち時代は変れども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。本願寺津村別院誌(抜粋)
蓮如上人袈裟がけの松
豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊舎をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。Pine tree on the branch of which Priest Rennyo put his clothes
Before Hideyoshi Toyotomi built his castle, there stood the gigantic temple named Osaka (Ishiyama) Hongan-ji Temple. Rennyo had built a small facility for Buddhist missions in 1496, which later developed to the big temple, Osaka Hongan-ji Temple. Rennyo prayed for the growth of his sect and hung his clothes on a branch of the pine tree, of which only the stump remains now.
南無阿弥陀仏の石柱がこれです。
石柱の前にも案内板があります。
石山本願寺と大阪(大坂)
明応5年(1496)、本願寺第8代宗主蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21付の蓮如の『御文(御文章)』とされている。
この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された。
天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
大坂(石山)本願寺の寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町二千軒におよぶ町家が建ち並んでいた。たくさんの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
やがて本願寺は織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し、鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591)に京都へ移転した。
一方、秀吉は大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した。この大坂城は大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。しかし、この大阪城公園の辺りがその遺跡と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。大阪市教育委員会