千貫櫓は徳川幕府による大坂城再建の際に建てられた二重櫓で、重要文化財に指定されています。
面積は1階が217m2、2階が163m2で、高さは13.5mです。大手門を北から防御する重要な役割を果たしていました。
それ以前の豊臣秀吉の時代にも、また織田信長の時代にも千貫櫓という名前の櫓はあったとされます。もともとの名前の由来は石山合戦の際に横矢が効果的に飛んでくる隅櫓に苦戦させられ、信長が「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことにあるとされます。
千貫櫓は1620年(元和6年)に小堀遠州の設計・監督のもと築かれた櫓で、現在の大阪城に残る建物の中では西の丸にある乾櫓と並び、もっとも古い建造物です。
1961年(昭和36年)に解体修理がおこなわれました。
堀の外から見た千貫櫓です。いちばん左が千貫櫓です。
城内側では大手門の枡形虎口を抜けて、二の門(櫓門)をくぐったところから見えます。
重要文化財 千貫櫓(せんがんやぐら)
大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。Sengan-yagura Turret
The Sengan-yagura Turret served to protect tho Ote-guchi Entrance of Osaka Castle from the side. Built during the early Edo period in 1620, this turret is one of the oldest buildings still standing on the premises of Osaka Castle. The original Osaka Castle, built during the Toyotomi period (late 16th century) that preceded the Tokugawa shogunate, also had a turret named the Sengan-yagura. Reportedly, the name "Sengan" comes from an anecdote of the earlier the Age of Civil Wars; when Nobunaga Oda invaded the Osaka (Ishiyama) Hongan-ji Temple, which was located on this site, Nobunaga's soldiers were exposed to an attack from a turret attached to the temple, which was so intense that they murmured among themselves: "That turret is worth Sengan (a large amount of money)."
特別公開中であれば、内部を見学することができます。