高橋紹運といえば、九州三強の一角で数ある守護大名の中でも名門として知られた大友氏の重臣だ。
立花宗茂の実父、ということでわかっていただける人も多いかもしれない。
彼と立花道雪は戦国時代後期に急速に衰退していく大友氏を支えて奮闘した。
そんな紹運が壮絶な死を迎えることになったのが1586年(天正14年)、「岩屋城の戦い」でのことだ。
このとき、宿敵である島津氏の五万ともいう軍勢が北上し、大友氏は絶体絶命の危機に陥っていた。
そんな中、紹運はあえて対島津氏最前線の岩屋城にわずか763名の兵とともに篭ったのだ。
なぜ紹運はそのような自殺にも等しい行為に踏み切ったのか。
ひとつには、このころの大内氏に必要なのが何よりも時間だった、ということがある。
大内氏は以前から中央の権力者である豊臣秀吉とつながりを作っており、その援軍が十分に期待できたのだ。
また、岩屋城の背後にはもともと高橋氏の居城で次男のこもる宝満城があり、さらには立花氏の婿養子になった宗茂のいる立花城もあった。
彼らを守るためにも、紹運はなんとしてでも島津氏の進撃を食い止めなければならなかったのである。
実際、紹運の奮戦はすさまじかった。
飛び道具を撃ち放ち、また岩を落とし木を落として敵を城に近づけさせなかった。
結果、圧倒的な戦力差にもかかわらず島津軍は岩屋城を攻めあぐね、ついに陥落させるまで14日を要したという。
紹運は降伏しなかった。763名のすべてが玉砕し、岩屋城の戦いは終わる。
しかし島津氏の損害も4500以上という甚大なもので、また短くない時間を岩屋城攻めに費やしてしまったことから、大友氏・豊臣方に貴重な時間を与えてしまった。
結果、九州に押し寄せてきた豊臣軍は島津軍を一蹴、降伏へ追い込んだのである。
もちろん、紹運の2人の子どもたちも無事であった。
紹運の死は玉砕としか表現しようのないものだった。
まったく勝ち目のない戦いであり、そのとおりに彼は命を落とした。
しかしその死によって主家や息子たちを救ったのもまた事実なのである。