この連載ではこれまでに数多くの名軍師を紹介してきた。
知勇兼備の名将から、築城や交渉などの特殊技能の持ち主、そして僧侶まで様々な人々がいた。
しかし、その多くに共通する特徴であり、また軍師が活躍するのに欠かせない要素が一つある。
それは主からの信頼だ。
軍師は基本的に補佐役であり、ということは主君が彼の策を取り上げてくれない限りは活躍しようがない、ということでもある。今回紹介する真田幸村(信繁)などは、まさにそのような事情によって活躍できなかった軍師の典型というべき男である。
(上田市立博物館蔵)
幸村は信濃の謀将・真田昌幸の次男として戦国時代終盤に誕生した。
彼の父は武田滅亡後に豊臣家に仕えたため、幸村も秀吉の小田原攻めなどで活躍したとされる。
しかし、彼が勇名をあげたのは何と言っても「関ヶ原の戦い」の時だ。
この時、彼と昌幸が立てこもった上田城は、徳川秀忠が率いる徳川本隊の攻撃を受け止め、大いに苦しめた。
秀忠たちが関ヶ原本戦に参加できなかったのはそのせいと言われるほどの活躍である。
残念ながらこの戦いでは幸村たちが与した西軍が敗れ、戦後に家康の手によって江戸幕府が開かれた。
幸村は九度山に幽閉されたが、十数年後に豊臣家と江戸幕府の関係が悪化すると、脱出。
豊臣方について二度の「大坂の陣」に参加した。
最初の戦いである「大坂冬の陣」において、幸村は大坂城に「真田丸」と呼ばれる特設の砦を作ると、ここに攻めかかる幕府軍に大きな損害を与えた。
だが、彼はあくまで「臨時で味方になっている浪人」という扱いであり、豊臣家全体に意見を反映できるような立場ではなかった。
そのような状況では兵の数における圧倒的な劣勢を覆すことはできなかったのである。
結局、冬の陣は和睦という形で終わり、その際に大坂城は堀を壊されてその防御力を失ってしまった。
間も無く始まった夏の陣においては先の戦いのような善戦もできず、豊臣方は次々と討ち死にして行く。それでも幸村は奮戦し、一度は家康の近くにまで迫ったが、ついに彼も倒れた。
その戦いぶりは多くの武将たちが激賞したが、幸村が軍師として戦全体に関与することができれば、もっと結果が変わったのではないか。
そう夢を見るものも少なくない。