ここまで紹介してきた軍師たちは、多くは名の知れた、あるいは「名前くらいは聞いたことがある」「関わった事件は知っている」という武将や大名であったかと思う。
だが、戦国の世を駆け抜けた軍師は、そのような有名人ばかりではない。
今回紹介する川田義朗(かわだ よしあき)も、そのような軍師の中の一人だ。
川田義朗が仕えたのは九州三強の一角、島津氏だ。
「兵道」を学び、これを活かして大いに活躍したと伝わる。
この兵道はそのまま解釈すれば軍事手法、合戦のやり方ということになるが、義朗の活躍を追いかけてみると、どうも合戦における儀式や呪術のことを指しているらしい。
史料から見える彼の行いについても、「血祭りの儀式(詳細は不明だが、合戦を終えた後、討ち取った敵の将兵に対して行うものであるため、鎮魂の儀式の類であろうか?)」を行う、鬨(かちどき)を上げるなど、儀式に関するものが目立つ。
つまり、彼はこの連載で幾人か紹介してきた軍配者的軍師――儀式・呪術担当の軍師であったわけだ。
島津家の武運長久を祈って全国の神社を巡った、という逸話からも、そのことが伺える。
ただ、義朗が単に神がかりの人であったかというと、そうでもないようだ。
島津氏が九州三強のひとつである龍造寺氏を打ち破った「沖田畷(おきたなわて)の戦い」の前のことである。
彼は祈祷の結果として「法螺貝を吹いて山の向こうから答えの貝の音が聞こえたら勝ち、聞こえなかったら負け」と島津軍将兵の前で宣言する。果たせるかな、答えの貝は鳴り、実際に島津軍は戦いには勝利した。しかし、実はその貝は彼があらかじめ指示して鳴らさせたものであった――。
はっきりいえばインチキの類ではあるが、将兵の士気が高まればそれでいい、というのは合理的な考えであろう。
彼のような軍配者は、諸大名家それぞれにいて、将兵が怯えを払い、士気を高めるのに、大きな役割を果たしていたものと思われる。