太田道灌は室町時代の末期から戦国時代の初期にかけて、関東地方で活躍した武将だ。この頃の関東は、様々な勢力の思惑が入り乱れて、混乱の時期が長く続いていた。
足利将軍の一族であり、もともと関東を含む東国を支配する鎌倉府の長である鎌倉公方。その補佐をする関東管領を輩出する上杉氏の一族。
そして中央の権力者である将軍……。
鎌倉公方は二つに分裂し、上杉一族からも本流である山内上杉と、傍流から躍進した扇谷上杉がそれぞれに台頭したからまたややこしい。
その有り様は、「関東には一足早く戦国時代が到来していた」とさえ言えるくらいだ。
道灌はこれらの勢力の一つ、扇谷上杉氏の家宰を務める太田氏に生まれ、主家を支えて八面六臂の奔走をした。
特に、山内上杉の重臣・長尾景春が反乱を起こした際には、上杉方の方針決定に大きく関与するとともに、自ら三十あまりの合戦にも参加し、数々の功績を上げている。
また、参謀・指揮官としての道灌は早さを尊び、少数の兵を素早く動かすことで合戦を早めに終わらせることをその特徴とした、という。
道灌には他の顔もあった。これまでも紹介してきた通り、戦国時代の軍師は「軍配者」と呼ばれ、縁起を担ぎ占いを行うなどの呪術者的側面が強かった。
道灌は幼い頃から鎌倉五山で学んだ学者であり、武将としての勇猛さとともにそのような呪術・儀式の知識をも兼ね備えた教養人で、軍配者としても活躍したようだ。また、特殊な技術としては築城術の覚えもあり、のちに江戸幕府の本拠地となる江戸に最初の城を建てたのが彼であることはあまりにも有名である。
だが、あまりにも才覚に溢れた部下は、上司からすると鬱陶しいものでもあるらしい。
1486年(文明18年)、主君である扇谷定正の屋敷に招かれたところ、暗殺されてしまった。
一説には、定正のライバルである山内顕定がそそのかしたものだともいう。
その後、扇谷氏は新興勢力である北条氏に攻められ、滅亡している。
「享徳の乱」や「長尾景春の乱」など太田道灌が活躍した時代の関東の状況についてはこちらの記事で詳しく書いてあります。